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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第5主日



先週の信徒総会で、聖堂を靴のまま入れるようにすることと、祭壇後ろの十字架の下に隠されている復活のイエス像をよみがえらせることについて話し合い、とにかくやってみようということになりました。
十字架と覆いを外して出てきたのがこの絵です。ドミニコ会のアルベルト・カルペンティール神父の作。
やっぱり隠しておくのはもったいない!

●年間第5主日
 聖書箇所:イザヤ6・1-2a, 3-8/一コリント15・1-11/ルカ5・1-11
    2019.2.10カトリック原町教会
 ホミリア
 きょうの福音は、ルカ福音書が伝える不思議な大漁の出来事です。ガリラヤ湖の漁師は夜中に漁をしたと言われています。ペトロたちはプロの漁師でした。そのペトロたちが一晩中働いても何も獲れなかったというのに、イエスは「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言います。常識的に考えれば無駄な骨折りです。日中になった今更、魚が獲れるはずはないのです。しかし、ペトロは「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と言います。なぜでしょうか。
 ペトロはイエスを舟に乗せていて、その舟の上からイエスは群衆に教えておられました。だからペトロにはイエスの話はよく聞こえていたはずです。イエスが語られたのは、いつも神の救いの福音でした。マルコ福音書で言えば、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」これがイエスのメッセージでした。ルカ福音書ならば、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イザヤ書のこの箇所を朗読して、イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とおっしゃいました。
 神はあなたがたを決して見捨てない。あなたがたの王として、必ずあなたがたに救いをもたらしてくださる。その神に信頼しなさい。イエスはいつもそう語りかけていました。この場面で舟の上から群衆に向けて語られたイエスの言葉もそういう救いの福音の言葉だったはずです。
 それを聞いていたペトロだから、「しかし、お言葉ですから」なのです。
 もうダメだ、今更、頑張ってもどうにもならない、そう思っているとき、イエスはいつも「神に信頼して、もう一度やってみようよ」と呼びかけてくるのです。

 人生の中で大きな挫折を経験したときに、特にそのイエスの呼びかけを聞きたい。わたしたちはそこから出発していくことができます。不思議な大漁の物語は、ヨハネ福音書21章の復活したイエスと弟子たちの出会いのときにも繰り返されます。同じような出来事が2回あったのでしょうか?それとも1度あった出来事が、伝えられていくうちに、2つの物語になっていったのでしょうか。とにかく、イエスの十字架の後の不思議な大漁のときには、弟子たちはもっと大きな挫折、失望、絶望の中にいました。一晩漁をしても魚が獲れなかった、とうレベルの話ではありません。自分たちがすべてを捨てて、この人こそ救い主だと信じて付いていった、そのイエスが十字架で殺されてしまったのです。すべての希望は途絶えました。「国に帰って、また漁師でもするか」そんな心境だったのでしょうか。そこに復活のイエスが現れて、不思議な大漁の出来事が起こりました。「もう一度やってみようよ」復活したイエスからその呼びかけを受け取って使徒たちは再び歩み始めます。

 そんな挫折を経験したことがありますか?そんなことはあまりないのでしょうか?
 わたしは自分でつくづく思うのですが、生きるのが下手です。何度か本当に挫折して行き詰まってしまったことがあります。若い時もあったし、司祭になってからも何回かありました。そういうのはわたしだけの経験でしょうか。
 人間、いろいろな理由で行き詰まることがあります。罪の自覚の中でそうなることがあります。今日の朗読のイザヤも、パウロも、そしてペトロも自分が罪人であると深く自覚していました。「自分はダメな人間だ。神の前に立つことのできない、どうしようもない人間だ」そこで行き詰まってしまうのです。そのイザヤに向かって、神は「あなたの罪は赦された」と宣言します、ペトロに向かってイエスは「恐れることはない」と言います。パウロに現れた復活のイエスは「起きなさい」とおっしゃいました。もう一度立ち上がって歩んでみなさい。それが罪のどん底に落ち込んだ人へのイエスの呼びかけです。

 自分への失望ということもあるでしょう。物事がうまくいかない。人間関係がうまくいかない。どうすることもできない行き詰まり。あるいは他人に対する失望。さらに自分の属している組織や社会への失望ということもあるでしょう。職場かもしれない、教会かもしれない、国かもしれない。なんでこんなひどいことが起こるのだろう。なぜこんなも嘘や不正が満ちているのだろう。まかり通っているのだろう、本当にがっかりしてしまって、逃げ出したくなることもあります。でもイエスは、「それでも神はあなたがたを見捨てていない。だからもう一度やってみようよ。わたしに従う道を、あなたから始めてみようよ」そう呼びかけてきます。
 自然災害など、思いもよらない災いがふりかかって、もうダメだと思うこともあります。何もかも奪われ、自分にはもう何も残っていない。すべてはおしまいだ。でも、その中でイエスは、「もう一度やってみようよ」と呼びかけてくださるのです。簡単にはその声は聞こえないと思います。でも、いろいろな形でイエスの呼びかけはあるのです。時間もかかるでしょう。でも、その呼びかけが人に届くと、そこから人は歩み始めることができるのです。

 そんなに大きな人生の挫折でなくても、わたしたちは日々、小さな失望やあきらめをたくさん経験しているかもしれません。「まあこんなもの、昨日も今日も明日もたいして変わらない。どう頑張ってみても無駄だよ」でもいつもイエスは「もう一度やってみようよ。神に信頼して、本当に愛することに向かって、一歩でも近づけるように、もう一度やってみよう」そう呼びかけているのではないでしょうか。
 「人間的には無理だと思います。しかし、お言葉ですから」ペトロのように、わたしたちもそう答えたい。今日は今日なりに、精一杯、そう答えて歩んでいきたい。


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