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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第8主日



午前中はいつもの原町教会ですが、午後は久しぶりに宮城県の角田教会に。
本当に小さな教会で、幼稚園の一室が聖堂になっています。
参加者8人でしたが、こじんまりとしたいいミサになりました!

●年間第8主日
 聖書箇所:シラ27・4-7/一コリント15・54-58/ルカ6・39-45
        2019.3.3カトリック原町教会/角田教会
 ホミリア
 今日はわたしの司祭叙階の記念日です。わたしは29歳で司祭職の按手を受けました。もう34年もたちました。
 司祭になったころに聞いたこんな話があります。
 ある人が天国に行ってみると、使徒ペトロがいろいろな部屋を案内して見せてくれた。信徒の部屋、シスターの部屋、子どもたちの部屋。たくさんの人がそこにはいた。でもある部屋を覗いてみると、そこには人は誰もいなくて、タラコのようなものがたくさん転がっていた。ペトロに「これは何の部屋ですか」と聞くと、ペトロはこう答えた。「これは神父たちの部屋です。神父たちは口ではよいことをたくさん話していたので、舌だけが天国に入れてもらえたのです」
 っていう話。戒めとして大切にしていますが、でも本当に自分の司祭生活がどうだったのか、と考えると、やはり言葉だけだったのではないかと、身のすくむ思いがします。

 本当に言葉だけじゃダメなはずです。今、カトリック教会は、教会の中での児童性虐待の問題で本当に傷ついています。子どもや弱い立場の人を守るという福音の第一の要求をよく分かっていたはずなのに、弱く小さな人々を守るよりもむしろ教会組織や聖職者の権威を守ろうとしてしまった。いくら言葉を費やしても無駄なのです。本当にどう生きるか、それが問われています。

 ただし、今日の聖書朗読は言葉の大切さを強調しています。その面も確かにあると思いますので、少していねいに見たいと思います。第一朗読にこうあります。
 「6樹木の手入れは、実を見れば明らかなように、心の思いは話を聞けば分かる。7話を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。言葉こそ人を判断する試金石であるからだ。」
 今日の福音の結びにも、「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」という言葉があります。
 
 それはこの箇所の文脈全体を見れば、「愛の言葉を語ろう」ということだと思いました。
 先週の箇所に、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とありました。それに続いて語られたのが「人を裁くな、人を罪びとだと決めるな」という言葉です。そして今日の箇所になります。
 「41あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 42自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
 あなたのここが悪い、ここが問題だ、と人を非難する言葉ではなく、愛とゆるしの言葉を語りなさい。ということではないでしょうか。
 意識していないと、ついつい逆の言葉を言っている。人を裁く言葉。人を切り捨てる言葉。テレビや新聞やインターネットでニュースを見ていると、ひどいことがいっぱいあります。この政治家はダメだ。このタレントはダメだ。この国はダメだ。あの国の人間はダメだ。そうやって人を切り捨てる思いもたくさん出てきて、人を切り捨てるような言葉もどんどん出てくる。へたをすると身近な人を見ていても、この人のここが悪い、あそこが悪い、やっぱりあの人はダメだ。本当に怖いくらい、人間の中には人を見下す心がありますし、そこから人を否定する言葉も平気で出てきてしまいます。

 人を否定するような言葉は心から出てきます。でも人を受け入れる言葉も心から出てきます。愛とゆるしの言葉。
 昔見たテレビのある番組の一場面を思い出しました。宮沢賢治のことを追った番組でした。宮沢賢治がなくなったのは1933年ですが、そのころはまだ宮沢賢治に出会ったことのある人が生きていたのです。その番組は、岩手県に行って、賢治に出会った人に話を聞くのです。あるご高齢の女性は子どもの頃、宮沢賢治にたまたまちょっと会ったそうです。そのとき賢治は、その子のことを「貧しくても、心のきれいな子どもに育ちましたね」と言ったそうです。彼女はずっとその言葉を心に抱いて、つらいときも苦しいときも、それを支えに生きてきた、って言いました。すごいですね。ほんの一言、心から出る愛の言葉が人の一生を支えることことがあるのです。

 イエスに出会った人々もそういう言葉を聞いたのでしょう。
 「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ7・50, 8・48)「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(ルカ8・39)「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」(ヨハネ8・11)
 復活してトマスに現れたときの言葉も大きなゆるしと励ましの言葉だと思います。
 「あなたの指を当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」
 わたしたちも本当にそういう愛とゆるしの言葉をイエスから聞くことができますように。そして出会った人にそういう愛とゆるしの言葉を語る者となることができますように。祈りましょう。


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