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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第4主日



「ふるさとを汚すな STOP 汚染土再利用」
最近、南相馬市でよく見かけるようになったのぼりです。南相馬市を走る常磐自動車道は片側1車線ですが、それを2車線にする工事の土台に、除染作業で出た汚染土(1kgあたり8,000ベクレル以下のもの)を使うという話が持ち上がっています。地元では圧倒的に反対の声が多いです。除染で出たゴミは、仮置場から中間貯蔵施設を経て、2045年には県外で最終処分されると決まっているはずなのですが、最近、福島県内が最終処分の場所になりそうな話が出てきています。放射能汚染はすべて福島に押し付けて、他の地域は安全だということにする、まるで基地を押し付けられている沖縄と同じようなことになりつつあるのではないかと危惧しています。

●四旬節第4主日
 聖書箇所:ヨシュア5・9a, 10-12/二コリント5・17-21/ルカ15・1-3, 11-32
       2019.3.31カトリック原町教会
 ホミリア
 あまりにも有名な放蕩息子のたとえ話です。長いたとえ話でしたが、前半の最も大切なポイントは帰ってきた息子を父親がどう迎えるか、という点です。こうあります。
 「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
 この「憐れに思い」と訳されている言葉、この言葉について考えると、いつも佐久間彪という神父さんのことを思い出します。亡くなられてもう5年になります。親子ほど年が違う東京教区の大先輩でしたが、会うといつも「幸田くん」と言ってくださって、なにか旧制中学の後輩のような感じで接してくださいました。永遠の少年みたいなところがあった方だと思います。油絵を描き、チェロを弾き、作曲をなさったりもしていた方です。一番有名なのは「マリアさまのこころ」という聖歌でしょうか。最後のころ、ガンになって、わたしは補佐司教として、病院に付き添わせていただいたりしました。

 さて、この「憐れに思う」と訳されている言葉ですが、ギリシア語では、「スプランクニゾマイ」(辞書の形)と言います。佐久間神父によれば、この言葉は「はらわた」という意味の「スプランクノン(複数形:スプランクナ)」という言葉に動詞の語尾をつけたもの。だから佐久間神父は「はらわたする」と訳しました。目の前の人の苦しみを見たときに「自分のはらわたがゆさぶられる」「こちらのはらわたが痛くなる」そういうことを表す言葉なのです。「まあ、かわいそうに」なんていうのではなく、相手の痛みを体で感じ、体が反応してしまって、だからほうっておくことができず、近寄っていって助ける。愛とはそういうこと。今日の箇所では放蕩息子の父親は、帰ってきた息子を見て、「はらわたして」走り寄り、我が子として迎え入れます。ルカ10章の善きサマリア人のたとえ話では、道に倒れている人を見たサマリア人は、その人を見て、はらわたして、近づいて、その人を介抱します。
 父である神ははらわたする方であり、わたしたち人間には、誰にでもその「はらわたする」心が与えられている。それが大切なのだと佐久間神父はよくおっしゃっていました。

 この四旬節、わたしたちは父である神のもとに帰り、この父のはらわたする心に触れるというのが大きなテーマです。父の眼差しに出会い、父のはらわたする心に触れ、そこからわたしたち一人一人に与えられている「はらわたする心」をもう一度取り戻していきたいのです。
 わたしたちにはそもそも「はらわたする心」が与えられている。でもいろんな計算や打算が働き、自分の立場や名誉や利益を守ろうとして、そんないろいろな考えが邪魔をして、「はらわたしないようにしている」ということは誰の中にもあるのではないでしょうか。とにかく忙しくて、あれもやらなきゃならないし、これもしなくてはならない。人の苦しみを見て、いちいちはらわたしていたらやってられない、という思いもあるでしょう。だから、はらわたする心に蓋をして、隣人の横を通りすぎる。まるで「善きサマリア人のたとえ」の中の祭司やレビ人みたいな部分がわたしたちの中にはあると思います。

 今日もわたしたちはミサに集まりました。
 それは放蕩息子が父のもとに帰っていったのに似ているのではないでしょうか。わたしたちの中には、この一週間、自分はちゃんと働いてきた、と言える部分もあるかもしれません。でも一方では、神様とは関係ない場で必死にいろいろやってきて、疲れ切って、ボロボロになってやっとミサに来た、という面もあるでしょう。「そうだ、父の家に帰ろう」放蕩息子に勇気が必要だったように、わたしたちもある意味、必死の思いでこのミサに集まっているのではないでしょうか。
 そのわたしたちを、父である神は見つけて、はらわたして、走り寄って、我が子として迎え入れてくださる。そして喜びの宴に招いてくださる。ミサとはそういう父との出会いの場なのです。「ゆるしの秘跡」もそういう父との出会いの場です。わたしたちはいつもそこから出発していきます。どんなに行き詰っても、もうダメだと思っても、わたしたちの帰りを待っていて、遠く離れていてもわたしたちを見つけてくれて、「はらわたして」走り寄ってきてくださる父に出会い、そこから新たに出発していくのです。
 どこに向かって? もう一度、人の苦しみに素直に「はらわたする」ことに向かってです。本当にすべての人を大切にすることに向かって行くのです。
 わたしたちの四旬節の歩みはそういう歩みです。その歩みを神が導き、支えてくださいますように。心を合わせてこのミサの中で祈りましょう。


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