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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

受難の主日(枝の主日)



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近所の人も明るくなって良かったと言ってくださいました。

●受難の主日(世界青年の日)
 聖書箇所:ルカ19・28-40/イザヤ50・4-7/フィリピ2・6-11/ルカ23・1-56
     2019.4.14 カトリック原町教会
 ホミリア
 ミサ典礼書の注意書きで、今日の箇所には、わざわざ「受難の朗読後、適当であれば簡単な説教を行う」と書いてあります。聖書朗読が長いためでしょうか。イエスの十字架について、ああでもない、こうでもないと言葉を並べ立てるより、受難朗読そのものをしっかりと味わい、十字架をしっかりと見つめよう、ということではないか。それで、簡単にいくつかのポイントだけお話ししたい。

 受難の物語を皆で一緒に読みました。受難の主日のミサの受難朗読は三年周期でマタイ、マルコ、ルカ、と読まれてきて、今年はルカの年です(聖金曜日は毎年ヨハネです)。ルカ福音書はマルコ福音書をもとに、いくつかの大切なエピソードを書き加えていて、そこにルカの特徴があります。
 十字架刑を言い渡された後、イエスは処刑場に引かれていきましたが、そこでまずイエスのことを嘆き悲しむ女性たちを慰める話があります。「わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣け」その後、ちょっと分かりにくい言葉が続きますが、それは「この先、もっと大きな苦しみが待ち受けている」という予告のようです。イエスは自分が死刑になろうとしているのですが、イエスの心にとって、自分の身を案じるよりも、出会う人々の身を案じることのほうが優先されています。
 十字架に付けられるときのイエスの言葉もルカ福音書だけが伝えるものです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ここでもイエスは自分のことよりも、自分を十字架につけた人々のことを思いやり、その人々のために神にゆるしを祈りました。
 マルコ福音書やマタイ福音書では一緒に十字架に付けられた犯罪人二人がイエスをののしったことになっていますが、ルカ福音書はそのうちの一人がイエスを正しい方と認め、イエスに救いを願いしました。それに対してイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されました。ここにも最後の最後まで、出会った人を愛し抜かれたイエスの姿があります。

 そしてルカが伝える十字架上での最後の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というものでした。これもマルコやマタイとはずいぶん違います。マタイとマルコが伝える十字架のイエスの言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉でした。絶望のようにも聞こえるこの言葉は、答唱詩編で歌われた詩編第22編の冒頭の言葉で、この詩編全体を見れば、最終的に賛美に変わっていくのですが、とにかくひどい苦しみの中からの叫びであることも事実です。ルカは、これとは違う「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉を伝えています。これはほとんど詩編31・6の言葉です。元の詩編と違うのは呼びかけの言葉で、詩編では「まことの神、主よ」となっていますが、ルカでは「父よ」という呼びかけです。十字架につけられた場面での祈り、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と同じイエスらしい呼びかけになっています。ルカは、最後の最後までイエスが父である神に信頼して祈り続けた姿を伝えるのです。

 マルコ福音書やマタイ福音書では、十字架のイエスは無力でただの苦しむ人になってしまったように見えます。ルカの描く十字架のイエスも確かに無力で、苦しむ人です。しかし、ルカはその中で最後まで人を愛し続け、最後まで神に信頼し続けたイエスの姿を大切に伝えています。

 ここから二つのことを感じ取りたいと思いました。
 わたしたちもまったく無力で、苦しみばかりで、どうにもならないしどうにもできないと感じることがあります。それでも、十字架のイエスは、あなたにできることがある、と語りかけているのではないでしょうか。それは精一杯人を愛すること、そして神に信頼し、神に自分を委ねること。どんな苦しみと無力さの中でもそれだけはできることなのだ!
 もう一つのこと。それは、本当に神に信頼して生ききるとき、本当に人を大切にして生ききるとき、その人生の歩みは、肉体の死で終わらない、ということです。信頼という神とのつながり、愛という人とのつながりは、死に打ち勝つ! これがイエスの十字架が語りかけていることです。そしてそれをキリスト教は「復活」という言葉で宣言してきました。

 イエスの受難・死・復活を、わたしたちはこの聖週間をかけて思い起こし、祝います。2000年前のこととしてではなく、今のわたしたちの生きる力の源として、大きな支え・励ましとして、希望の根拠として、イエスの受難・死・復活を記念したいと思います。



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