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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖金曜日・主の受難



聖金曜日の「十字架の礼拝」で用いた十字架です。
教会の抽斗の奥から出てきた古いボロボロの十字架を、カトリック信者でないボランティアのSさんが見事に修復してくださいました!
いつもいつもありがとうございます。

●聖金曜日・主の受難
 聖書箇所:イザヤ52・13~53・12/ヘブライ4・14-16, 5・7-9/ヨハネ18・1~19・42
      2019.4.19カトリック原町教会
 ホミリア
 ミサの奉献文の中のぶどう酒の聖別の言葉に、「あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血」という表現があります。「多くの人」というと「すべての人」ではないように聞こえてしまうので、「すべての人」と言ったほうがいいのではないか、という意見があります。英語では以前、「for all」という訳が使われていたのですが、今はバチカンから注意されて「for many」となっています。元の言葉を大切にしなさい、というのですね。日本語でも、「多くの人」と言っていますし、これを変えるのは難しそうです。どうでしょうか。残念ながら説明がいりますね。もともとヘブライ語やアラム語には「すべて」という表現がなく、「多くの人」という言葉で「すべての人」を表した、だから内容としては「すべての人」の意味だと受け取っていいのだ、と説明しないとわからないでしょう。

 今日の第一朗読は、イザヤ書52章から53章にかけての「苦しむ主のしもべ」の箇所です。苦しみをとおして人々を救う不思議な方のことを、紀元前6世紀の、第二イザヤと呼ばれる預言者は預言しました。その中でも「わたしのしもべは、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」とか「多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」という表現があります。ここもどう考えても「すべての人ではない」という意味ではありません。彼によって救われるのはすべての人で、「その人々の数が多い」という意味でしょう。抽象的に、十把一絡げに「すべての人」というよりも、具体的に「あの人のためにも、この人のためにも、本当にたくさんのすべての人のために」というニュアンスで受け取れば良いのかもしれません。

 イエスはすべての人の救いのために十字架にかかってくださった。イエスの十字架による救いからは、誰も除外されていない。そのことは本当に大切だと思います。自分を十字架につけた人のためにも、十字架につけられたイエスをののしった人のためにも、「最後までついていきます」と言いながら十字架を前に逃げ出してしまった弟子たちのためにも。本当にすべての人のために十字架にかかってくださった。わたしたちはそう信じます。
 パウロの書いたテモテへの第一の手紙2章には、こうあります。
 「1そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。2王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」
 「4神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。5神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。6この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。」
 ここでは「すべて」ということが強調されています。神は「すべての人」の救いを願っておられる、イエスは「すべての人」の救いのために死んでくださった。だから「すべての人のために祈りをささげなさい」とパウロは言うのです。

 今日の典礼には「盛式共同祈願」があります。テモテへの手紙にあるように、イエスがすべての人のために死んでくださったことを記念するのがこの聖金曜日ですから、今日、すべての人のために祈ろうとするのです。
 キリストの教会のため、教会に奉仕する人のため、洗礼志願者のため、カトリックでないキリスト者のため、キリストを信じていない人のため、神を認めない人のため、政治に携わる人のため、そしてさまざまな困難を抱えたすべての人のため。数え上げたらキリがないのですが、そこには除外される人がいないというのが特徴です。

 どうにも波長が合わない人がいます。好きになれない人がいます。あんな人はどうなっても知らない、なぜあんな人たちのために祈らなければならないの?(なんで嘘ばかりついている政治家のために祈らなければならないの?)それは「この人もイエスがその人のために十字架にかかってくださった、そういう人なのだ」と信じるからです。イエスはほんとうにすべての人の救いのために、いのちをささげてくださいました。教会という囲いの中の人だけじゃない。ヨハネ10章にはこういう言葉もあります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10・16)。これがイエスの心、イエスの望みなのです。

 でも一方で、この救いはエレベーターやエスカレーターのように、わたしたちを自動的に神のところに連れていってくれるような救いではないことも確かです。今日の第二朗読はヘブライ人への手紙でしたが、この手紙の10章にこういう言葉があります。
 「兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」(19-20節)
 象徴的な表現で言おうとしていることは、十字架で流されたイエスの血、十字架で殺されたイエスのからだがもたらしたものは、神との一致にいたる「新しい生きた道」だということです。エレベーターやエスカレーターじゃないから、自分の足で歩んでいかなければなりません。イエスが歩まれたように、わたしたちも歩いていかなければ、本当の救い=神との一致には至りません。でもイエスはこの道を、救いの道を、神のもとに通じる道を、すべての人のために、いのちがけで開いてくださった。わたしたちはそう信じるので、イエスとともに、今日、すべての人の救いのために祈るのです。


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