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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活の主日・日中のミサ



少し前の写真ですが、南相馬市小高区飯崎のお墓にある枝垂れ桜です。
なぜか分かりませんが、お墓の桜はきれいですね。

●復活の主日・日中のミサ
 聖書箇所:使徒言行録10・34a, 37-43/コロサイ3・1-4or一コリント5・6b-8/ヨハネ20・1-9
     2019.4.21カトリック原町教会
 ホミリア
 復活の主日の福音では「空の墓」の場面が読まれます。復活徹夜祭には3年周期でマタイ、マルコ、ルカが読まれ、この日中のミサではヨハネ福音書となっています。イエスは十字架で亡くなってすぐに墓に収められ、安息日が終わった三日目の朝、女性の弟子たちが墓に行ってみると、墓が空になっていた。4つの福音書は共通してこの出来事を伝えています。
 イエスの墓が空だった。だからイエスが復活したとは言えません。この出来事にはいろいろな解釈がありえます。
 マタイ福音書は祭司長たちや長老が集まってこう言ったと伝えています。「弟子たちが夜中にやってきて、我々(番兵たち)が寝ている間に死体を盗んで行った」ことにせよ。
 ヨハネ福音書では今日の箇所でマグダラのマリアは「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」と言います。
 墓が空だったというのなら、誰かが遺体を運び出した、と考えるのが普通でしょう。空の墓はせいぜい、何かとんでもないことが起こった、ということを予感させるだけの出来事だとも言えます。

 イエスが復活したということは、その復活したイエスと弟子たちが出会ったという出来事、いわゆる「出現」によってこそはっきりと示されます。この出来事は、日曜日のミサでは復活節第2、第3主日に読まれていきます。福音書にはさまざまな形でこの出現の出来事が伝えられています。そのすべてを見ていくといくつかの不思議な特徴があることが分かります。

 まず一つの特徴は、復活したイエスがご自分の弟子たちにしか姿を表さなかった、ということです。ファリサイ派やサドカイ派の人々が集まる神殿の境内に姿を表せば、その人たちも信じたのではないでしょうか。でもなぜか弟子たちにだけ姿を表しています。
 次に、弟子たちにとっても、姿を現したのがすぐにはわからないような姿だったということ。ヨハネ福音書では今日の箇所の後、マグダラのマリアに姿を現しますが、マリアはその人を見て園丁だと思いました。ルカ福音書が伝えるエマオの弟子たちは、一緒に歩いている人がイエスだと気づきませんでした。他の弟子たちは亡霊だと思ったりしています。ヨハネ21章のガリラヤ湖での不思議な大漁の場面でも、弟子たちは岸に立って自分たちに声をかけた人がイエスだと気づきませんでした。どんな姿でイエスは現れたのでしょうか? 不思議です。
 でも、その人がイエスだと気づくしるしもありました。マグダラのマリアの場合、「マリアよ」と呼びかけるなつかしい声でした。エマオの弟子たちの場合は、イエスがパンを取り、賛美して、パンを裂いて渡したときでした。ガリラヤ湖の弟子たちにとって、イエスに言われて網を打ったところ不思議にも大漁になった、という出来事でした。どれも生前のイエスを思い出させるしるしです。そのしるしがあるから、目の前の人がイエスその人だと分かるようになっていったのです。
 さらに、イエスが弟子たちに特別な仕方で弟子たちに姿を現したのは、限られた期間でしかありませんでした。使徒言行録によればそれは40日という期間限定の出来事だったのです。これらすべてのことは何を意味しているでしょうか。もしもイエスが、誰でも分かるような姿で、今、国連総会の場や、渋谷の駅前やNHKのテレビ局にでも姿を現せば、もっと簡単にすべての人が信じるようになるのではないでしょうか?

 でもそうではなかったのです。イエスが出現した、ということは、ご自分の弟子たちに自分が死に打ち勝ち、神とともに生きているということを知らせるための出来事でした。復活したイエスは地上のいのちに舞い戻ってきたのではなく、神の永遠のいのちを生きる方となった。それが復活ということですし、そのことを弟子たちに悟らせるために、イエスは特別な仕方で姿を現したのです。
 大切なのは、イエスの死が、単なる死で終わらなかったこと。イエスは今も目に見えないけれど生きていて、わたしたちとともにいて、わたしたちを支え、励まし、導いてくださっていることです。復活祭はそのことを祝います。2000年前にとんでもないことが起こった、それを祝うというよりも、今のわたしたちの中に起こる出来事として、復活を祝います。そう考えているうちに、突然ですが、「平和を求める祈り」を思い出しました。

   神よ、わたしを平和のために働く者としてください。
   憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、
   分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、
   誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、
   闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください。
   慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、
   愛されるよりは愛することを求めますように。
   わたしたちは与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
   すべてをささげて永遠のいのちをいただくのです。

 憎しみから愛へ、争いからゆるしへ、分裂から一致へ、疑いから信仰へ。
 誤りから真理へ、絶望から希望へ、闇から光へ、悲しみから喜びへ。
 慰められるよりは慰めること、理解されるよりは理解すること、愛されるよりは愛すること…それがもし私たちの中に少しでも実現していくとするならば、イエスは今も生きていると言えるのではないでしょうか。
 ご復活おめでとうございます。

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