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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第二主日



写真は南相馬市小高区の菜の花畑。広いですけど、よく見たら、太陽光発電のパネルもたくさんありました。
たしかに原発よりはいいのですが・・・

●復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
 聖書箇所:使徒言行録5・12-16/黙示録1・9-11a, 12-13, 17-19/ヨハネ20・19-31
    2019.4.28カトリック原町教会
 ホミリア
 「あなたがたに平和があるように」今日の福音にはこのイエスの言葉が3回出てきます。ヘブライ語なら「シャローム・アレイへム」となります。今もイスラエルで使われている、ごくごく普通のあいさつの言葉です。「あなたがたに平和」。でも復活したイエスが弟子たちに姿を現したときの「あなたがたに平和」という言葉は、今日の箇所に3度繰り返されていることからわかるように、特別に印象的な言葉だったのでしょう。そしてこれは今日のわたしたちにとっても、特別な意味を持つ言葉だと思います。

 一週間前、復活の主日に、スリランカのコロンボで大規模な自爆テロが起きました。狙われたのは教会とホテル。その中にはカトリックの聖アントニオ教会もありました。死者は300人を超え、負傷者も数百人だそうです。復活祭が狙われたのは、本当に悲しいことです。祈るために教会に集まっていた人々が殺傷されました。なんということでしょうか。ISが犯行声明を出しています。地元の過激なイスラム原理主義者と一緒にテロを起こしたようです。
 またイスラム過激派と思われるかもしれませんが、テロはイスラム過激派だけが起こしているのではありません。今年3月15日にはニュージーランドのクライストチャーチのイスラム教のモスクを狙った銃によるテロ事件がありました。50人の方が犠牲になり、負傷者も50人ぐらいいたそうです。犯人は過激な移民排斥主義者、反イスラム教思想の持ち主で、オーストラリア国籍の男でした。

 犯人たちは「テロだ、報復だ、戦争だ」と何らかの大義名分を考えているのかもしれません。でもそうじゃない。単なる人殺しです。人間と、人間のいのちを踏みにじる暴力やテロに対しては激しい憤りを感じないわけにいきません。でも、なぜこんな悲惨なテロが繰り返されるのでしょうか。同じ人間を、「異教徒だ、外国人だ、移民だ」という理由で、殺戮の対象として見ることができるというのは、およそ信じられないようなことです。なぜそんなことが起こりうるのか。とんでもなくひどい人間がいる、悪い人間がいる、では済まされないような思いがしています。もしかしたら自分の中にもテロリストはいるのではないか。そう考えてみる必要はないのでしょうか?人間を、身内の人と外の人に分ける、自分たちは正しい人間、生きていていい人間、他の人はどうなってもかまわない。そういう考えがわたしたちの中にまったくないとは言い切れないのではないか。
 そう思う時、復活したイエスの「シャローム=あなたがたに平和があるように」というメッセージが本当にわたしたちの心に届くように祈りたい。

 この「シャローム」はゆるしの宣言でした。弟子たちは皆、イエスが逮捕されたとき、逃げてしまいました。ヨハネ福音書は十字架の場面で愛する弟子と母マリアを出会わせますが、それは事実というよりも、象徴的な表現なのかもしれません。他の福音書ではすべての弟子がイエスを見捨てて逃げてしまっています。「自分の十字架をとってわたしに従いなさい」と言われ、「どんなことがあってもついていきます」と言っていたはずなのに、結局はついていけなかった。ユダだけでなく、すべての弟子はイエスを裏切り、弟子として失格者になりました。その弟子たちに向かって、復活したイエスは「シャローム」とおっしゃいました。それはものすごいゆるしの言葉だったのです。イエスは「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃいます。もう一度弟子として受け入れ、弟子として新たに派遣するのです。そしてこう言います。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」これが弟子たちの使命です。「ゆるすもゆるさないも弟子たち次第、あなたたちの好きにしていい」ということではありません。「あなたたち次第だから、あなたたちがゆるしなさい」ということです。イエスのはかり知れないほど大きなゆるしを体験したのだから、知ったのだから、あなたがたがゆるしなさい!
 ほんとうにこのイエスの、神のゆるしを知ること。そこからすべての人を大切にすることができるようになります。どんな人をも、敵と言わざるを得ないような人でも、それでもその人をゆるし、愛することができるようになる。復活のイエスの「シャローム」はその力をわたしたちに与えてくれます。

 「シャローム」は恐れに打ち勝つ力でもありました。今日の福音のはじめに、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。先生であるイエスが捕まり、あんなふうに殺されてしまった。弟子の自分たちもどんな目にあうか分からない。町にはイエスの残党を捕らえようとして、探し回っている人たちがいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、家の戸に内側からしっかりと鍵をかけ、災いが過ぎ去るのを待っていました。しかし、いくら鍵をかけていても、心の中は恐れと不安で一杯でした。そこにイエスが現れて、「シャローム」と言います。イエスが共にいてくださる。そのことをしっかりと受け取った弟子たちは、自分から内側から鍵を開けて、外の世界へ出かけていくことになりました。「シャローム」という言葉は元々「欠けたもののない状態」を表す言葉だったそうです。心が神の平和に満たされる、そこからすべての人に向かって開かれていく心、それが平和の心です。戦争が起こるのも、テロが起こるのも、被害者意識からであり、他者への恐怖心からです。「このままではやられてしまう、だったらこちらから先に攻撃するしかない」そういう思いがテロや戦争を引き起こすのです。その恐怖心や不信感を乗り越える「シャローム」。それを本当に復活のイエスからいただいていきたいと思います。



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