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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第3主日



わたしのお勧めの浜通りみやげを集めてみました!

今日は電車で仙台まで行って、元寺小路教会で主日のミサ奉仕。
いつもながらの説教メモです。

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録5・27b-32, 40b-41/黙示録5・11-14/ヨハネ21・1-19
         2019.5.5カトリック元寺小路教会
 ホミリア
 今日の福音に「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」(14節)という言葉があります。先週のヨハネ20章で、週のはじめの日の夕方と、それから八日目の出来事が伝えられていましたから、当然3回目ということになるわけですが、それでも、どうもこれはこの弟子たちにとっては復活したイエスとの最初の出会いであったかのようにも感じられないでしょうか。
 そもそもなぜ弟子たちはティベリアス湖(ガリラヤ湖)で漁などしているのでしょうか?20章の最初の出会いの中ですでにこう言われていました。
 「21『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」
 神のゆるしを人々に届ける、というこれまでイエスがしてきたことと同じ使命を受けて、弟子たちは派遣されたのです。そう考えれば、呑気に漁なんかしている場合じゃない。どうも今日の弟子たちの物語は、20章の物語とはまったく別の、弟子たちの体験に基づいている話なのではないか。そもそも本来の福音書は20章で終わっていて、21章は後の付加部分ですから、切り離して読むことができるのではと思っています。

 イエスがエルサレムで十字架刑で亡くなってしまった。その後、ある弟子たちは失意のうちに故郷であるガリラヤに帰り、元の仕事である漁業に戻っていた。まあそんな弟子たちがいたとしてもおかしくないでしょう。イエスの弟子たちにとって、イエスの十字架の死はすべての希望を断たれてしまうような出来事であったはずです。
 ルカ福音書が伝えるエマオの弟子たちの物語で、その二人の弟子は言いました。
 「(ナザレのイエス)は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」(ルカ24・19-21)
 すべての希望は断たれてしまった。もうエルサレムにいる意味がない。故郷であるエマオに帰ろう、そんな感じですね。今日のヨハネ21章の弟子たちも似ているかもしれません。

 イエスの死によってすべての希望が断たれ、何のために生きているかもわからなくなっていた。生きる意味を見失っていた。そんな弟子たちにとって復活したイエスとの出会いは、再び生きる意味と意欲を取り戻す出来事だったと言えるのではないでしょうか。「あのイエスが生きておられる、共にいてくださる。」それは弟子たちにとって、生きる意味を新たに与える出来事だったと思います。
 今日の福音の弟子たちは、不思議な大漁を目の当たりにし、「主だ!=イエスがここにいてくださる」という喜びのうちに、大量の魚を陸に引き上げました。面白いのは9節です。「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」全部、イエスが用意していてくれていたわけです。こういう体験ってあるのではないでしょうか。自分が一生懸命やったつもりだったのに、でも本当は神がすべてを計らっていて、すべてを準備してくれていた。でもイエスはこうも言います。「今とった魚を何匹か持ってきなさい」人の働きも無にはならないのです。そしてこの自分の働きは神さまの働き、イエスの働きとつながっている。そう感じた時に、生きる意味が生まれてきます。

 そんな中、ペトロには特別な使命が与えられます。それは牧者(羊飼い)としての使命です。三度イエスを知らないと言ってしまったペトロには、どうしようもない負い目があったはずです。「愛しているか」そう三度問われたことはきつかったでしょう。でも、どれだけ立派な人間か、そんなことではなく、ただイエスを愛しているから。イエスに結ばれているから、新しい使命が与えられる。これも生きる意味と関連しています。わたしたちはペトロとは同じ使命ではない。でもわたしにはわたしのイエスから与えられた使命がある。そう受け取った時に、わたしの人生も生きる意味と意欲を取り戻すことになります。
 今日の福音の物語を、生きる意味を取り戻す、そういう物語として読んでいてはどうかと思ったので、こんな話をさせていただいています。

 わたし自身、若い頃、生きている意味が見いだせなくて、どうにも行き詰まっていたことがありました。そのとき、イエスに出会い、本当に生きる意味を与えられたと思います。聖書に伝えられたイエスという方は、2000年前に生きた歴史上の人物ではなく、目に見えないけれど、今わたしたちの間に、わたしたちとともにいてくださる。本気でそう感じられたら、そこからわたしたちひとりひとりの生きる意味が見えてくる。わたしはそういう体験をしました。だから今日の弟子たちの体験はわたしの体験でもあります。

 わたしたちの周りにも生きる意味、生きる意欲を失っている人がいます。
 わたしは今、福島県南相馬市の原町教会というところで働いていて、特に周囲にそういう人々がいるのを感じます。大震災と原発事故によって、故郷を奪われ、元のコミュニティーを奪われ、仕事も奪われ、家族と一緒の生活も奪われた。もちろんそんな中でも前向きに生きている人たちもいます。でも本当に生きる意欲も、生きる意味も見失ってしまった人たちもいるのです。
 その人たちと一緒に、もう一度、生きる意味・生きる意欲を見つけていきたい。これがこころの復興をいう課題だと思います。簡単じゃありませんが。
 本当に深いところで、神はそれでもわたしたちとともにいる。イエスは今も生きていて、わたしたちの歩みを支えてくださる。そして人と人とは支え合って生きることができる。あなたは決してひとりぼっちじゃない。・・・その福音を分かち合いながら、歩んでいくことができますように。これは別に被災した人だけの問題ではないはずです。
 わたしたち皆が、復活してともにおられるイエスによって生きる新たな力に満たされますように。


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