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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第4主日



たまたま手もとにあったジャン・バニエの本を並べてみました。
他にも『愛と性の叫び:心に傷を負った人々からの』などすてきな本がたくさんありました。
みんな絶版かもしれませんが・・・

●復活節第4主日、世界召命祈願の日
 聖書箇所:使徒言行録13・14, 43-52/黙示録7・9, 14b-17/ヨハネ10・27-30
           2019.5.12カトリック原町教会
 ホミリア
 毎年、復活節第4主日のミサでは、ヨハネ福音書10章から羊飼いと羊のたとえが読まれます。今日の箇所の少し前に、「わたしは良い羊飼いである」という有名なイエスの宣言があります。そこから今日の主日は「良き牧者の主日」とも呼ばれるようになりました。この言葉の背景には、やはりイエスご自身がなさった羊飼いのたとえ話があると思います。

 100匹の羊のたとえ話は二つの形で伝えられています。マタイ18章を見ましょう。
 「10これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。12あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。13はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。14そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
 ここでは教会共同体のあり方が語られる中で、わたしたちが迷った小さい人を軽んじないように、と教えるためにこのたとえが使われています。天の父である神の心はこういうものだと言うのです。

 ルカ福音書15章は違う文脈の中でこのたとえ話を伝えています。
 「1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。
 4『あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言うであろう。7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。』」
 なぜイエスが罪びとと一緒に食事をしているか、その理由としてこのたとえが語られています。それは父である神がこの羊飼いのような方であるから、ですね。たった一匹の迷った羊も見捨てず、探し求め、見つけたら大喜びするこの羊飼いのような方だから。イエスは、だから、わたしも罪びとというレッテルを貼られて排除されている人を招いて、一緒に食事をしているのだ、ということになります。ここでは、父である神が羊飼いにたとえられ、イエスご自身がこの羊飼いとして生きている、ということも明確です。

 そこからヨハネ10章のように、「良い羊飼いであるイエス」ということが出てくるのでしょう。「良い羊飼い」という言葉は、イエスの生き方と結ばれているのです。このヨハネ10章は9章の盲人のいやしの話とつながっています。そこでは労働をしてはいけない安息日(それを汚す者は死刑に処せられるはずの安息日)であっても、目の前の苦しむ人を見捨てず、いわば命がけでその人をいやしたイエスの姿があり、そこから「わたしは良い羊飼いである」という宣言へとつながっていくのです。

 この羊飼いの特徴は誰をも排除しないこと、もっとも弱い羊に目を注ぐことでした。そのことを思い巡らしているうちに、先週5月7日に90歳で亡くなったジャン・バニエのことを思い出しました。彼は司祭ではなく、カトリックの一般信徒でしたが、多くの著作が日本語にも訳されています。現代のキリスト教世界に大きな影響を与えた人でした。わたしはある時期、司祭や神学者の書いた本を読んでも何も感動するところがなくなってしまい、ほとんど読まなくなりましたが、ジャン・バニエの本だけは読んでいて、いつも光を与えられました。

 ジャン・バニエは1928年、カナダの名門の家で生まれ育ち、士官学校を出て、エリート軍人の道を歩んでいました。しかし、軍人を辞め、パリの大学で哲学を学ぶようになりました。1960年代のことですが、パリの郊外で二人の知的ハンディを持った人と一緒の生活を始めました。その中でジャン・バニエは、ハンデイを持った人が、世話をされるだけの人間ではなく、自分たちにないすばらしいものを持っていることに気づかされます。今の社会では、いかに能力を持っているか、いかに大きな力を持っているか。どうやって競争に勝つか、というのが当たり前になっています。でもこの人たちは違う、弱く貧しいけれど、だからこそ人と繋がる力、愛する力を持っている。ハンデイを持った人々の中にすばらしいものを見つけ、そこからわたしたちが学ぶ。そしてもっとも貧しい人、弱い人、小さい人を中心に人が集まるところに共同体が再生される。傷ついた人と人とのつながりがそこから生まれていく。ジャン・バニエはそのことを人々と分かち合いました。
 実践として、ジャン・バニエはハンディをもつ人々とそうでない人々がともに暮らす「ラルシュ共同体」というものを作りました。世界中に広がっていて、日本でも一つだけですが、静岡県に「ラルシュかなの家」があります。本当に弱い人、ハンデイをもつ人をどう見るか、どう一緒に生きるか。それは障害者の問題ではなく、わたしたちの生き方の問題だと問いかけたのがジャン・バニエという人だったと思います。

 今日の福音の箇所で、イエスは「わたしは彼らを知っている」と言います。わたしはわたしの羊を知っている、と言うのです。わたしたち人間の弱さも、罪深さも、痛みも、苦しみも、そして、わたしたち一人一人の中にある素晴らしさも、いのちの輝きも。そのすべてを知っていてくださる方がいる。その方は「わたしの父が、わたしにくださったものは、すべてのものより偉大」ともおっしゃいます。「くださったもの」とは羊であるわたしたちのことです。わたしたち一人一人を、どんな人であっても限りなく大切なものとして見ていてくださるというのです。
 その方は今も生きていて、今もわたしたちを羊飼いとして守り、導いてくださっています。そのことを今日もこのミサで祝い、本当に深く受け取りたいと思います。


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