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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第6主日



白石教会に行く途中、蔵王がよく見えました。山頂にはまだ雪が残っています。
ところが、白石市の国道4号線の気温表示板はなんと「35℃」。ビックリ❗️

●復活節第6主日、世界広報の日
 聖書箇所:使徒言行録15・1-2, 22-29/黙示録21・10-14, 22-23/ヨハネ14・23-29
    2019.5.26カトリック白石教会、亘理教会
 ホミリア
 「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」
 ミサの中で毎回、主の祈りの後で司祭が唱える言葉で、お馴染みの言葉だと思います。「平和」という言葉は、以前の日本語訳聖書では「平安」と訳されていました。ミサの中でも「平和の賛歌」の中の「われらに平安を与えたまえ」というところに「平安」が残っています。日本語では「平和」と「平安」はニュアンスが少し違います。でもヘブライ語では「シャローム」、ギリシア語では「エイレーネー」、ラテン語で「パックス」、どれも一つの言葉で、平和と平安のような区別はありません。日本語としては、確かに弟子たちの心に与えられるものですから「平安」のほうがぴったりなのかもしれませんが、世界の平和というときにも元は同じ言葉なので、今は全部「平和」と訳しています。まあ、「心の平和」と言えば誤解がないでしょう。
 平和にしろ、平安にしろ、「おだやかな状態」を表します。心おだやかで、安心している状態が「心の平和、平安」という状態です。世界がおだやかで、争いがなければそれが「平和」な状態ということになります。

 イエスが「わたしの平和」というとき、それは何よりも一人一人の心に与えられる「心のおだやかさ、安心感」を指しています。「世が与えるような平和」というのは、確かに一見平穏で戦争がないような状態かもしれませんが、強い者が弱い者を力で押さえつけているから戦いが起こらない、とか、武力と武力が均衡しているから戦争が起こらない、そういうような平和です。「平和」と言っても、心の中は不安や恐れ、敵意や対抗意識に満ちている。それが世が与えるような平和。それに対してイエスが与える平和は、本当に心の深いところに与えられるものです。
 その平和はどこからくるかと言えば、「神が共にいる」というところから来ます。今日の福音から言えば、「イエスが共にいる、聖霊がわたしたちの内にいる」ということもできるでしょう。人間の力を超えた大きな力、愛の力がわたしたちを包み、守り、支えている。そこからくる平和なのです。
 イエスはその平和を今日の福音にあるように、最後の晩さんの席で弟子たちに約束されました。本当にその平和を受け取りたいと思います。

 日本では「人が宗教を信じるのは心の平安のため」と言われることがよくあります。それは確かにそのとおりだと思います。本当に大きな何者かに信頼するところから、心の平和が生まれますし、それは人間の力を超えたところからしかこないからです。「教会に来ると安心する」みんながそう思えることが第一ですね。「教会に来ると心が落ちつかない。不安になったり、嫌なことを思い出して不愉快になる」そういうのが一番悲しいことです。でも現実にはそういうこともあります。教会も人間の集まりですし、そこには力関係や暴力が入り込んでくることもある。でもだからこそ、みんなが安心して来られる教会、平安を感じられるような教会になることができるよう、本気で努力しなければならないと思います。

 でも、心が平和・平安であればいいのでしょうか?
 人が苦しんでいるのを見て、心を揺さぶられるとか、人が不正に虐げられているのを見て、怒りを感じる心。そういうのがなくて、どんなときも平らな心で心穏やか、というのも偽りでしょう。イエスもしばしば激しく心を動かし、激しく怒りもしました。
 自分さえ平安であればいい、というところに留まるのではなく、すべての人の平和へと向かっていくようなキリストの平和を願い求めたい、と思います。

 今わたしのいる原町教会の隣には、「カリタス南相馬」があります。これは震災の翌年、カリタス原町ベースという、ボランティア活動拠点として、東京教区のカトリック東京ボランティアセンターによって始まりました。震災と原発事故から8年経って、この度、「一般社団法人」となりました。日本全国のカトリック教会が行う復興支援活動は10年までということになっています。それを超えて、カリタス南相馬はカトリック団体として、そこに居続けたいと考えています。特に心の復興のため、これからが本当に支えが必要ではないかと感じています。カリタス南相馬は、一般社団法人設立にあたって、その目的として「地域コミュニティーの再創造、自然との共存、世界平和の構築に寄与する」と謳いました。なんと大げさな、と思われるかもしれません!

 今、東日本大震災のどの被災地でも、仮設住宅が終わり、新しい家を建てたり、自分の家を手に入れたり、災害公営住宅・復興公営住宅に入ったりという段階に来ています。仮設住宅では被災者同士が寄り集まっていたのがバラバラになってしまい、そこでかえって、人が孤立してしまうという問題が起きています。特に福島県浜通りでは、元いた地域に帰れない、ということが大きな問題です。これまでの8年間の避難生活の疲れやストレス。そして、先行きが見えない不安。そして一人一人が高齢化していっています。本当に追い詰められていく人がいるのが現実なのです。「平和・平安」どころじゃないのです。
 その方々となんとかつながりたい、何よりも「あなたは一人じゃない」と伝えたい。少しでも心の平和が感じられるようになってほしい。そう思いながら関わりたいと願っていますし、それが人と人との間の平和、世界の人々の間の本当の平和につながることを信じて歩み続けたいのです。

 「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」
 今日もミサの中で、このイエスの言葉をいただきながら、わたしたちの心がキリストの平和に満たされますように、そして、わたしたちが人と人との間の平和のために働く力を与えられますように、ご一緒に祈りたいと思います。


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