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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

三位一体の主日



カリタス畑にたった1本植えられたぶどうの苗木(なんとCabernet Sauvignon)は小さな花をつけ、それが小さな房になりました。すごい楽しみ!

●三位一体の主日(祭)
 聖書箇所:箴言8・22-31/ローマ5・1-5/ヨハネ16・12-15
            2019.6.16カトリック原町教会
 ホミリア
 カリタス南相馬にいる聖心会のシスターの関係で、聖心女子大学の学生がまたボランティアに来てくれました。さゆり幼稚園の在園生と卒園生の「こどもかい」を手伝ってくれるためです。今日は5人の大学生と先生1人がミサに参加してくれています。
 聖心女子大学の学生ボランティアと言えば、40年も前のわたしの学生時代を思い出します。わたしが大学生の時代に活動していたボランティアグループにも聖心女子大の学生が何人かいたからです。そのころの話をさせていただきたいと思います。

 そのころのわたしは一言で言えば、「生きている意味」を見出せないでいました。大小いろいろな挫折を経験していて、なぜ自分は生きているのだろう、こんな辛い思いをして、なぜ生きていなければならないのだろう、どうやってこの先、生きていけばいいか分からない、そんな真っ暗闇の状態にありました。たまたま縁があって、教会に通い、聖書の勉強をするようになっていました。何か惹かれるものがあったのだと思いますが、いくら聖書を読んでも信じられないことばかりでした。神がいるとか、イエスが救い主キリストだなどというのは、ぜんぜん理解できず、信じられないことでした。
 大学2年の夏休みでした。わたしは教会の青年たちが参加する「ワークキャンプ」というものに誘われました。一週間、栃木県那須町の山の中にある光星学園という知的ハンディをもった人々の施設で、いろいろな作業を手伝うというボランティアでした。障害者のことも、ボランティアのことも何も知りませんでした。でも、生きる意味に迷っていて、特にバイトして旅行に行くというような予定もなかったので、なんとなく参加することにしました。那須高原といえば涼しそうなイメージだったのですね。

 行ってみるとそこはバス停から1時間ぐらい歩かなければならないほどほんとうに辺鄙な場所でした。そこに、たくさんの知的ハンディをもつ人々が生活している大きな施設がありました。着いた日に夕立と落雷があり、わたしたちの泊まる「八角堂」と呼ばれる場所は、電気が来なくなりました。ポンプも動かないので、水道も出なくなりました。東京から行った30人ぐらいの若者のグループでしたが、突然、電気も水道もない共同生活が始まったのです。そのグループに聖心女子大学の学生も数人いました。
 日中は学園の作業を手伝いました。最初にしたのはカブの間引き。東京から行った大学生たちですから、カブの間引きなんてしたことがありません。教えてもらって、なんとか間引きを始めたのですが、大地に這いつくばってする農作業は結構きついものがありました。「那須は涼しいだろう」なんて期待は裏切られ、炎天下で汗だくになりました。でもそこにある種の充実感もありました。そういう農作業というか肉体労働というのは、人生の中でほとんど経験がなかったのです。
 わたしは人と付き合うのがとても苦手でした。ましてほとんど初対面の人たちのボランティアグループです。最初は戸惑いました。でも、そのグループでは、とにかく作業があったので、一生懸命作業をしてみたら、自分にもここで居場所がある、と感じられたので、自然にそのグループに溶け込むことができました。それも本当に貴重な経験でした。

 ちょうどその頃、学園の中にあった那須教会の聖堂を建て替えることになって、その土台作りを手伝った日もありました。重機を使ってすれば簡単ですが、そうするとハンディをもった人たちの仕事はなくなってしまう。それでわざと大勢の人の手で斜面をけずり、平らな土地にするという作業をしていたのです。その日は学園のハンディをもった人たちと一緒の作業でした。一緒に作業したのは、障害の軽い人たちでした。休憩時間に一緒にお茶を飲みます。「あんたたちどっから来たのー」「東京から来たんだー」「どこに泊まってんのー」「八角堂だけど、この間の雷で、電気は止まったし、水道も出なくなったからたいへんなんだー」「なんだあ、それじゃおれたちのほうがよっぽど恵まれてんなー」
 「おれたちのほうがよっぽど恵まれてんなあ」と言った彼の顔はきらきらと輝いていました。わたしは衝撃を受けました。本当にこの人たちのほうが恵まれている! わたしは特に障害もなく、大学生という身分を与えられて、でも、生きる意味が見出せなくて、行き詰まっていました。それに対して、この人たちは、ハンデイを背負い、こんな山の中の施設で不自由な生活をしているのに、生き生きと生きているのです。それはなぜか。

 わたしが見つけた答えは彼らが与えられたいのちを精一杯生きているからだ、ということでした。他人と比較したら、こんな障害がある、人より劣っている、ということになるでしょうが、彼らは他人と比較しない。生かされたいのちを彼らなりに精一杯生きている、それだけで人間はこんなに生き生きと輝いて生きることができるのだ。だとしたら、このわたしも・・・なんであれ、いのちを与えられ、生かされているのだから、精一杯生きればいいんじゃないか。そう思えたのです。そして聖書をもう一度開いてみました。「貧しい人は幸い」「空の鳥、野の花を見なさい」そういうイエスの言葉が素直に心に入ってきました。そして、わたしはそこから出発することができました。「生きている意味を考える」のではなく、「生かされている意味」を考えるようになったのです。与えられたいのちをどのように人のために使ったらいいか、そう考えて歩み始めるようになりました。

 今日のミサの中で、一番心に響いたのは、答唱詩編の詩編8の言葉です。「あなたの指のわざである天を仰ぎ、あなたが造られた月と星とを眺めて思う。なぜ人に心を留め、人の子を顧みられるのか」ほんとうに、こんなにちっぽけな人間であるわたしにそれでも神は目を注ぎ、生かしていてくださる。永遠の父である神がいて、その神はご自分のいのちに人をあずからせるために、ひとり子イエスを一人の生身の人間として世に送ってくださった。そして今も目に見えない聖霊をわたしたち一人一人の心に注ぎ、わたしたちとともにいてくださる。その計り知れない恵みにわたしたちは生かされているのです。わたしはこの神の恵みに出会うことができました。皆さんも本当に出会ってほしい。そう願い、心から祈ります。



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