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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

キリストの聖体



6月24日(月)には、仙台教区司祭月例会の年に一度の被災地視察がありました。
今回は福島県浜通り北部で、平賀司教以下、20人の司祭が来てくださいました。
外国人の若い司祭の中には、福島の被災地が初めてという人も何人かいて、とても有意義な現地案内になりました。
写真は浪江町の慰霊碑です。

●キリストの聖体(祭)
 聖書箇所:創世記14・18-20/一コリント11・23-26 /ルカ9・11b -17
          2016.6.23カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音で弟子たちはイエスに「群衆を解散させてください」と言いました。人里離れたところに何千人もの人が集まってしまって、食べ物がない。自分たちにはどうすることもできないので、群衆を解散させましょう。これは常識的な判断でしょうか。でもイエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃり、結局、弟子たちはイエスを手伝って、群衆にパンを配ることになりました。
 弟子たちは本当に群衆のことを心配していたのでしょうか。さまざまな苦しみを抱える中でイエスという方に唯一の希望を見いだして、必死の思いでイエスのもとに集まってきた人々。その人々の苦しみや痛みを本当に感じていたのでしょうか。「自己責任でなんとかしなさい」弟子たちの言葉はそういう言葉です。でもそんなふうにできなくて、行き詰まっていた人々がイエスのもとに集まっていたのではないでしょうか。
 今日の福音は、わたしたちに「本当に人の痛みを感じているか」「もっともっと人の痛みに敏感でありなさい」と語りかけているように感じました。

 第二朗読はコリントの教会への第一の手紙11章です。コリントの教会はパウロが作った教会でした。パウロがそこを離れてから、コリントの教会には様々な問題が起こり、それを伝え聞いたパウロがコリントの教会に手紙で指示を与える。それがこの手紙の内容です。ここでの問題は「主の晩さん」のありかたでした。「主の晩さん」と呼ばれた今のミサの原型がそこで行われていました。それはキリスト者の共同の食事と結びついていたようです。そこでの問題はまず「仲間割れ」でした。仲間割れがある状態では「主の晩さんを食べることにはならない」と言います。そしてこう言います。「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。」一方に満腹するまで食べられる人がいて、一方に飢えている人がいる。その飢えている人の痛みに無関心でいて、主の晩さんを祝ったことになるのか、それがパウロの問いかけです。そして今日の箇所になるのです。
 わたしたちのいただくパンは、わたしたちのために渡されたイエスのからだの記念。わたしたちのいただく杯は、わたしたちのために流されたイエスの血の記念。そのイエスの十字架の愛、いのちがけの愛を記念しながら、わたしたちが人の痛みに無関心。そんなことはありうるのか。パウロの問いは、今のわたしたちにも向けられている問いです。

 今日は沖縄慰霊の日です。太平洋戦争の末期、1945年3月から沖縄戦と呼ばれる戦いが始まりました。アメリカ・イギリスの連合国軍は沖縄に上陸し、そこで激戦がありました。戦没者は米英側が2万人。日本側が18万8千人。そのうちの半数9万4千人が民間人でした。沖縄県の南部・糸満市にある平和記念公園(摩文仁の丘)。そこの「平和の礎」には沖縄戦で亡くなった20万人の人の名前が、日本人もアメリカ人イギリス人も、軍人も民間人も、一人一人の名が刻まれています。10年ほど前、日韓司教交流会で訪れたときに、空白の石板について説明を受けました。それは朝鮮半島から日本に連行されてきた人々で、名前も人数もわからない人々のためのスペースでした。
 圧倒的な痛み、苦しみ、死。それを感じないわけにはいかない場所でした。
 その沖縄に今も在日米軍基地の大半が押し付けられている、その沖縄の人々の痛みにわたしたちはどれほど敏感でいられるでしょうか。日本の植民地支配で苦しめられた韓国・朝鮮の人々の痛みをどれほど感じているでしょうか。
 身近なところでも痛みを抱えている人々がいます。満足な食べ物も得られない大人や子ども、誰からも必要とされていないと感じている人々。孤独で淋しい思いをしている人々。その人々の痛みに、わたしたちはどれほど敏感でいるでしょうか?
 聖体の祭日だからこそ、問われていると感じます。

 イエスは弟子たちのために、ミサを、聖体の秘跡を残してくださいました。目に見えないが、今も生きていて、わたしたちとともにいて、支え導いてくれるイエスとのつながりを確かな形で味わえるようにするためです。本当にわたしたちがすべてから見捨てられたようになって、どこにも頼るところがなくなっても、この聖体のイエスがわたしたちを支えるように。イエスはわたしたちの痛みを知っているからこそ、聖体の秘跡を残してくださったのだと思います。そのイエスの心を本当に感じたいのです。
 イエスが今も苦しみの中にある人々の苦しみを知っていてくださる。さまざまな人の痛み、福島の痛みも知っていてくださり、イエスはともに苦しんでいてくださる。そのしるしが聖体のパンなのです。

 ミサの食卓を囲むたびにわたしたちには痛みがあります。聖体にあずかれない人がいる、という痛みです。病気で教会に来られない人がいます。自分の家族でも洗礼を受けていない人、教会から遠ざかっている人がいます。周りにはもっとたくさんの洗礼を受けていない人がいる。まあ、幸せに生きていればそれでいいのかもしれませんが、確かなものを見失って迷っている人もたくさんいるのです。イエスはそのすべての人のために、聖体のパンとぶどう酒を残されました。そのイエスの思いを本当に受け止めながら、今日のキリストの聖体の祭日を祝いたいと思います。


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