FC2ブログ

毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第15主日



今週17日(水)はこのチラシにあるように、東京でお話をすることになっています。
ちなみに今回だけ、会場が聖イグナチオ教会ヨセフホール(1階)に変更になったそうです。
よろしければどうぞお越しください!

●年間第15主日
 聖書箇所:申命記30・10-14/コロサイ1・15-20/ルカ10・25-37
           2019.7.15カトリック原町教会
 ホミリア
 わたしの父が亡くなってもう20年以上たちます。父は50代の終わりから、長く民生委員・児童委員を務めました。新しくできた大きな団地にあるマンションを買って入居したのですが、ほとんどの人はわたしの両親よりも若い30代・40代の人たちでしたので、父に白羽の矢がたったようです。父は張り切って、何かしなければと考えましたが、新築マンションを買うことのできる経済状態の人たちばかりの団地ですから、民生委員がお世話をしなければならない人はあまりいませんでした。そこで、若い世代と一緒に団地に引っ越して来たけれど周囲は知らない人ばかりという高齢者を集めて老人クラブを立ち上げました。自分が高齢になるとその老人クラブの会長になって、地域でいろいろな人とのつながりを生きることができました。最後は認知症でいろいろたいへんでしたが、地域の方々に助けられました。

 というわけで、民生委員というのを横で見ていただけですが、つい最近、「民生委員・児童委員信条」というのがあることを知りました。
 (1) わたくしたちは隣人愛をもって社会福祉の増進に努めます。
 (2) わたくしたちは常に地域社会の実情を把握することに努めます。
 (3) わたくしたちは誠意をもってあらゆる生活上の相談に応じ自立の援助に努めます。
 (4) わたくしたちはすべての人々と協力し明朗で健全な地域社会づくりに努めます。
 (5) わたくしたちは常に公正を旨とし人格と識見の向上に努めます。
 いやあ、すごいですね、よっぽど世話好きの人でないと務まりません。最近、民生委員の引き受け手がいない、という問題があちこちで起きているようです。
 でも、これを読んで一番驚いたのは、「隣人愛」という言葉が出てきたことでした。民生委員・児童委員というのは地区割りなので、当然、その地域の福祉のために働くのです。身近な人々を助ける、そのことを「隣人愛」と表現しているのだと思います。

 聖書の「隣人愛」も確かにもともとはそういうことでした。旧約聖書・レビ記19章18節にあるのはそういう意味の隣人愛でした。17節から読んでみます。
 「17心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。18復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
 「兄弟」「同胞」「民の人々」そして「隣人」とありますから、身近な人の意味ですね。今日の福音でイエスと話している律法学者もそう考えています。だからどこまでが隣人の範囲か、とイエスに質問するのです。
 それに対して、イエスはこの有名な善きサマリア人のたとえ話をなさいました。そして、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問い返されました。イエスは決して身近な人を大切にしましょう、と言っているのではない。相手がだれであれ、困っている人、苦しんでいる人がいたら手を差し伸べるのが当然でしょう、と言っているのです。「隣人になっていく」というのはそういう世界です。

 「隣人」とは、一緒に生きている人のこと。支え合い、助け合い、時には迷惑をかけ合いながらそれでも一緒に生きていく人のことだと思います。イエスはすべての人とそういう意味で隣人になっていくように呼びかけました。でも今の社会、今のわたしたちの意識の中で、そういう人の範囲はどんどん狭くなってしまっているようにも感じます。
 最近聞いた話2つが心に刺さりました。
 1つはある方が保育所を新たに開こうとしたのですが、周囲からさんざんクレームが来て、結局、その計画が潰されてしまったという話。「子どもがうるさい、送り迎えの車がとおって危険になる、職員室から家を覗かれるのではないか、給食の匂いがしたきたらいやだ。」困って役所に相談に行ったら役所の係員に「保育所は迷惑施設ですから」と言われたというのです。多くの人にとって、他人の子どもっていうのは迷惑な存在なんですね!

 もう1つ、「出生前診断」の話も聞きました。妊娠した女性の検査で胎児に障害があるかどうか、ある程度分かるという検査があります。その技術はどんどん進んでいます。胎児に障害があると分かると、多くの場合に人工妊娠中絶が行われているのが実情です。親として障害を持った子どもを育てる自信がないということもあるでしょう。それも理解できますし、一概に裁くことはできないとも思います。でもそういうこととはとは別に、「障害があると分かっている子どもを産むのは社会に対する迷惑だ」という考えもあるのだと聞きました。それって、障害があるかもしれない子どもを産むかどうかで悩んでいる人にはものすごいプレッシャーになると思います。

 難民や移民の問題もそうです。困っている人・助けが必要な人を、隣人と見るか、迷惑な存在と見るか、問われます。今日の福音に登場する祭司やレビ人という人たちはエルサレムの神殿に仕えていた人たちでした。真っ先に愛の掟を実行するはずの人たちがなぜ道の反対側を通っていったのか。もし倒れていた人が死んでしまっていたら、死体に触れて、自分たちが汚れてしまい、神殿での奉仕ができなくなる、と考えたのかもしれません。それってつまり、自分にとってその人は迷惑な存在だということですね。そんな祭司やレビ人というのは、わたしたちの心の中にもたぶんいる。本当に今のわたしたちはどこかでおかしくなってしまっているのではないでしょうか。
 困難を抱えている人を迷惑な存在と見てしまうか、それとも「隣人(となりびと)」と見るか。わたしたち一人一人が深く問われていると感じています。


PageTop