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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第16主日



聖書講座、ミサ、講演会となんとかこなしたので、午後はのんびり。
2本160円で買ったバジルの苗が大きく育ったので、ジェノベーゼ・ソースを作りました。
材料はバジルの葉、松の実、ニンニク、パルミジアーノ・レジャーノ、オリーブオイル、塩。

選挙結果は最悪のようですが、バジル大好きです!

●年間第16主日
 聖書箇所:創世記18・1-10a/コロサイ1・24-28/ルカ10・38-42
             2019.7.21カトリック原町教会
 ホミリア
 カリタス南相馬にはいろいろなところから人が来ます。先日はベルギーに40年住んでいるという日本人の男性が来ました。ベルギーの教会でも司祭不足は深刻だと話していました。ただし世界的に見て、司祭の数は減っているわけではありません。アジア、アフリカなどでは今も司祭召命が多いので、全世界の司祭の数は増加しているという統計を見たことがあります。ただ、ヨーロッパ、北アメリカなどのいわゆる先進諸国での司祭不足は深刻になっています(もちろん日本、仙台教区でも)。どう考えたら良いのでしょうか。
 もっと召命のために祈るべきだ。
 もっと終身助祭を活用すべきだ。妻帯した司祭の可能性を考えるべきだ。
 いや、もっと信徒が教会の中でさまざまな役割を担うようにすべきだ。
 いろいろな意見があります。それぞれにもっともだとは思います。でもわたしは本気でそういう議論に加わる気がなくなっています。それは信者のうちの半数に対して、始めから司祭職への門を完全に閉ざしていて、それで司祭不足、と言っているのは、どう考えてもおかしいと思うからです。

 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙3章の言葉を思い出します。
 「26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
 主に結ばれて、男も女もない。すべての人は神の子、互いに兄弟姉妹。これがキリスト教の福音の核心にあることです。なぜ女性は司祭職から排除されているのでしょうか? 歴史的・文化的・伝統的にこれまでそうしてきたというのは理解できます。でもこれが世の終わりまで続くべきだとは思えません。どうしてもそのことを話さなければと思いました。

 「説教とは信仰を励ます話のことを言う」ある大先輩の司祭から聞いた言葉をいつも思い出します。今日の聖書の箇所を読みながら、いろいろ考えてみました。でもやはり、このことを言わないわけにはいかない、そう思ったのです。もし皆さんが信仰を励まされなければ、今日の説教は全部忘れてください。
 さて、今日の福音は有名なマルタとマリアの姉妹の話です。
 「やっぱりわたしはマルタだからダメよね」というような嘆きを何度も聞いてきました。全然福音として響いていないのです。わたしがいくら福音だと言っても、そんなふうにしか受け取ってもらえなくて、ものすごくがっかりした記憶が何度もあります。

 この物語の背景には当時の男女の役割分担があります。宗教的義務は男性だけに課せられたものでした。律法を学び、律法を守る義務。礼拝を行う義務。それは男性だけの義務であり、権利でした。女性にはそういう義務も権利もありませんでした。なぜなら女性は自分の時間の主人だとは見なされなかったからです。女性は男性に仕えるものであり、男性に仕えることをとおして、神に仕えるというのが当然の考えでした。
 その中で今日の物語を読めば、マルタのやっていることのほうが、当時の女性として当然のことなのです。先生の話を聞く、というのは男性の弟子がすべきことであって、女性はその弟子たちに仕えていればいいのです。マルタは、姉妹のマリアが女性なのに、イエスの話に聞き入っている、それが気に入らないわけで、マリアが男性だったら、文句を言わなかったでしょう。自分と同じ女性であるマリアがそうしている、そこが問題なのです。

 こういう男女の役割の固定化、というのは福音書の世界の中も確かにあります。ルカ8章にこういう箇所があります。
 「1すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。2悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、3ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」
 確かに現実的には、イエスの弟子たちの中でもそうだったのかもしれません。だからこそ、今日の箇所でイエスがマリアを弁護することに大きな意味があります。神のことばを聞くのは男性だけの役割ではない、女性も神のことばを聞いていいのだ。いやそれこそがすべての人にとって、最も大切なことなのだ。

 イエスの女性との関わりは独特です。当時の常識をはずれていました。
 イエスは自分に近づいてくる女性を平気で受け入れました(ルカ7・36-50)。井戸端でサマリアの女性と話し込んで弟子たちを驚かせました(ヨハネ4・27)。イエスを取り囲む群衆の中にも、弟子たちの中にも女性がいました(マルコ3・33-34)。そしてこの女性の弟子たちは、男性の弟子たちが逮捕されたイエスを見捨てて逃げたのに対し、十字架までイエスについて行きました。
 「女性はこうあるべきだ」というような、女性の特別な役割についてイエスが語った言葉はまったく見当たりません。イエスにとってすべての人は等しく神の子であり、互いに兄弟姉妹。その福音が当時の女性にとってどれほど大きな福音だったか、そのことを本当に深く感じ取りたいと思います。そしてわたしたちもそのイエスの福音に招かれていることを感じ、感謝しながら今日のミサをささげたいと思います。



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