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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第17主日



野馬追でバタバタしていましたが、とりあえず、説教メモです。

●年間第17主日
 聖書箇所:創世記18・20-32/コロサイ2・12-14/ルカ11・1-13
            2019.7.28カトリック原町教会
 ホミリア
 わたしはここに住むようになって3年目ですが、相馬野馬追祭の初日である土曜日はいつも他の場所で仕事があり、今年初めて小高神社での出陣式に行ってきました。カリタスからボランティア30人が参加していたからです。その前の日には同慶寺で「歴代相馬藩侯墓前祭」というのがあったそうです。小高のシスターたちはそちらにも行かれたそうです。相馬野馬追祭もやはり祈りから始まるのですね。今の人間がやっているだけの祭というだけでなく、それを超える大きなこの土地の伝統や神仏の力を感じながらこの祭は今も行われているのです。祈りを大切にする姿勢には敬意を表したいと思います。

 さて、今日の福音の箇所はイエスが主の祈りを教え、また祈りの大切さを教える箇所です。祈りについてのイエスの教えの中心は「信頼」ということでしょう。主の祈りは「アッバ、父よ」という言葉から始まります。わたしたちが普段唱えている主の祈りはマタイ福音書の形で、しかも日本語なので、「父よ」の前に長い修飾語「天におられるわたしたちの」が付いていますが、ギリシア語では「父よ」が冒頭の言葉で、しかも本来イエスが教えた祈りの呼びかけはルカが伝えるように「父よ」だけだったようです。さらにアレルヤ唱で歌われたローマ8・15からわかるように、元々の呼びかけは「アッバ」という言葉でした。「アッバ」はアラム語で子どもが父親を呼ぶときの言葉です。何度もお話ししていますが、このアッバというのは、「父親」という意味であるよりも、もともとは赤ちゃんの叫び声のようなものでした。お腹が空いているのか、お尻が濡れて気持ち悪いのか、なんだかとにかく訴えたくて「アッバ」というのです。神様とは、人間が最初にそういう叫びをあげる相手、そんなふうに受け取ってもいいのではないでしょうか。わたしたちは赤ん坊のような信頼をもって、神に「アッバ、父よ」と祈ることができる。これがイエスの祈りについての教えの中心でした。
 「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。・・・まして天の父は!」
アッバである神は必ず祈りに応え、必ず良いものを与えてくださる、そのアッバである神に信頼して祈りなさい。イエスはそう教えておられます。

 わたしたちはこの地にいて、東日本大震災で亡くなられた方、被災された方、原発事故の被害者のために祈る機会が多くあります。そして被災地の復興のために祈ります。いや、それ以前に被災された方々自身が、その苦しみの中から必死に祈り、神に叫び声をあげる、というような祈りにも接することがあります。
 苦しみの中から祈る。津波や原発事故の関連(長い避難生活)で亡くなった方々のために祈る。苦しむ人のために祈り、被災地の復興のために祈る。当たり前のようにそう言いますが、そこにはどんな意味があるのでしょうか。
 自然災害や原発事故、その後の長く厳しい避難生活によっていのちを奪われた人が多勢いらっしゃいます。津波や原発事故によって家族や仕事、ふるさとや人とのつながり、生活のすべてを奪われた人がいらっしゃいます。圧倒的な被災の現実がここにはあります。8年経ったからかなり傷が癒えた、という面もあるでしょう。でも8年経って、ずっと頑張ってきたけれど、8歳、歳をとり、体も弱り、もう頑張れない、という方もいらっしゃいます。その中で人間の力は本当に小さいと感じます。大規模な復興関連の工事を見ていると、人間の力が大きいと感じることもありますが、一人一人の人間の復興という点では、失われたものはあまりにも大きく、「こころの復興」というのは決して簡単ではないと感じます。人の力を超える神の大きな救いの力に信頼して祈るしかない、というのが現実だと言えるのかもしれません。
 だからわたしたちは祈るのです。「祈るしかないから祈る」と言ってもいいのかもしれません。その中で、わたしたちキリスト者は、イエスが今日の福音で教えられたように、信頼をもって祈ろうとします。アッバである神は、あらゆる苦しみ、絶望、死をも超えて、わたしたちに良いものを与えてくださる、豊かないのちを与えてくださる、わたしたちを救いに導いてくださる。そう信じて祈るのです。

 今日の福音には「しつように頼む」という言葉がありました。
 「その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」(8節)
 「しつように」というのはギリシア語でanaideiaという言葉で、もとは「慎みがない、遠慮がない」という意味。「ずっと思い続ける」ということではないかと思いました。ずっと思い続ければ、神は必ず聞いてくださる。応えてくださる。イエスはそう約束してくださいます。しかし、ずっと思い続けるのは難しい、という面もわたしたちの中にあります。
 途中でどこかであきらめてしまう、やっぱり神様は聞いてくださらないんじゃないか、そう思ってあきらめてしまう。あるいは、思い続けることに疲れて、忘れてしまう。他に考えることややることはいっぱいあるので、そちらに心が行き、思い続けることができない、そんなことはたくさんあります。
 今日の福音の結びでイエスは「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と約束されますが、ふと、「思い続ける力」が「聖霊の力」なのではないかと思いました。祈りの中で神とのつながりを思い続け、そして、苦しむ兄弟姉妹とのつながりを思い続ける。そのような祈りを今日もこのミサの中でささげたいと思います。


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