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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

聖母の被昇天の祭日



先日、岩手県一関市の大籠キリシタン殉教公園に行ってきました。わたしは二度目でしたが、前回行けなかったクルス館にも行くことができました。クルス館は舟越保武さんが創られたものだそうですが、300段(殉教者の数)の階段の上にあります。中には十字架像、聖クララ像、マグダラの聖マリア像があります。300段はきつかったですが、これを登るだけで、巡礼に来たと感じられます。
バタバタしていて、日曜日の説教メモがあげられませんでしたので、被昇天のミサの説教メモを載せておきます。

●聖母の被昇天(祭)
 聖書箇所:黙示録11・19a, 12・1-6, 10ab/一コリント15・20-27a/ルカ1・39-56
         2019.8.15カトリック原町教会
 ホミリア
 子どもの頃、毎年、夏休みには両親の田舎に帰省しました。わたしの両親は二人共、福井県小浜市に実家がありました。仏教の家庭でしたので、そこでお盆を迎えました。子ども心に印象的だったのは、お盆で先祖の霊を送る儀式でした。海が近かったので、海まで歩いて行って、海に灯籠を流して、先祖の霊を送るのです。ちょうど海岸が西側に向いていましたので、日の沈む方向でした。死んだら、海の向こうに行く? ご先祖様が年に一度、子どもや孫の家に帰ってくるのをお迎えして、また送るのがお盆。なんとなく納得できるような気がしていました。

 今のわたしたちは、死んだらどこへ行くと信じているのでしょうか? 死んだらすべては終わる、という考えは現代の日本では結構強いと思います。人間のいのちを医学の対象としてしか捉えられないような傾向があるので、どうしてもそうなるのでしょう。でも本当にそうなのか、やはり問い続ける必要があると思います。死んだらすべては終わるという考えはキリスト教ではありえません。聖書とキリスト教の伝承がはっきりと示しているのは、人は死んだら天の神さまのもとに行く、ということです。
 「天」というのは古代の人にとっては、もちろん空の高いところのことでした。人間の生活している空間を超えたところ、はるかに高いところのイメージです。現代のわたしたちは飛行機やロケットを持っていますから、空の高いところが神さまのおられる天だとは考えません。この宇宙のすべてを超えた世界。時間も空間も超えた世界、そこが神のおられる天。わたしたちはその、時間も空間も超えた神のおられる天に行くと信じています。

 今日祝うマリアさまの被昇天というのは、マリアさまがキリストの復活のいのちに完全にあずかり、神のもとで永遠のいのちを受けるものとなったという信仰を表すものです。今日の第二朗読で、キリストの復活にすべての人があずかる、「キリストによってすべての人が生かされる」(一コリント15・22)という希望が語られますが、その第一人者がマリアだと教会は宣言するのです。それはマリアさまだけの栄誉ではなく、後に続くわたしたちも同じいのちをいただくという希望のしるしとしての被昇天だと言ったらよいでしょう。
 マリアさまはただイエスの母だからというのではなく、最初の救いのメッセージを受け取って、それに「はい」と答えたから第一人者なのです。今日の福音でエリサベトはマリアに向かって「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言いました。これは信じるすべての人に向けられた祝福の言葉でもありますが、その第一人者がマリアさまなのですね。

 この言葉に続いて、マリアさまは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と歌い始めました。ラテン語で「マニフィカト」と呼ばれる有名な賛歌です。前半は神の救いの訪れを受けたマリア個人の感謝と賛美で始まりますが、後半は救いを待ち望むすべての人の賛美へと広がっていきます。この前半と後半を結ぶキーワードのような言葉があります。それは「身分の低い」という言葉です。
 前半では、神が「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」(48節)と歌われ、後半では、神は「身分の低い人を高くあげ、飢えた人を良い物で満たし」(52-53節)と歌われます。マリアさまは、取るに足りない自分に目を注がれた神は、必ず小さく貧しいすべての人を顧みて、救いを与えてくださる。そう信頼して神を賛美するのです。
 マリアさまは自分だけの特権的な救いを求めません。本当に小さな自分にこそ神は救いを与えたのだから、すべての人に救いを与えてくださる、そう信頼するのがマリアさまのこころです。

 被昇天のマリアもそうです。マリアさまにとって大切なことは、自分が天に上げられることではなく、全世界のすべての人が神のいのちを受けるようになることです。今日はその希望の祝日なのです。
 マリアさまがそうであったように、わたしたちも皆、神のもとから来て、神のもとに帰っていきます。だからこの地上のいのちは決してむなしくはないのです。人のいのちは永遠の神によって生かされ、支えられ、意味づけられているのです。人間のいのちは時間の中にある有限のものに見えますが、でも本当は永遠の世界につながっているのです。そのことを感じながらその喜びを祝うのも、今日の祭日の大切な意味だと思います。

 この被昇天の光の中で、わたしたちの亡くなった家族や先祖のことを思いましょう。神がその人々をご自分の光の中に受けいれ、豊かないのちを与えてくださいますように。
 この被昇天の光の中で、戦争で亡くなったすべての人のために祈りましょう。その苦しみと死を神がいつくしみをもって受け入れ、その方々に神のもとでの永遠の安息といのちを与えてくださいますように。
 この被昇天の光の中で、すべての人のために祈りましょう。人のいのちは神から来て、神によって生かされ、神のもとに帰っていくものだということをすべての人が悟り、与えられたいのち(自分のいのちも他者のいのちもすべてのいのちを)大切にし、次の世代に引き継いでいくことができますように。


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