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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第24主日



一ヶ月ほど前に、道の駅ならはで買ったメダカさんたちは、元気に生きています。
新しいお家にお引っ越ししました。

先週は東京に出張していて、説教メモを載せられませんでした。今週はなんとか!

●年間第24主日
 聖書箇所:出エジプト32・7-11, 13-14/一テモテ1・12-17/ルカ15・1-32
          2019.9.15カトリック原町教会
 ホミリア
 神様というのをいつの間にか、人間を採点している方のように考えてしまうことがあります。あの人は80点だから天国行き。あの人は60点だからぎりぎり合格。あの人は40点だから不合格。そうやって天の雲の上から人間を見ていて、採点している神様のイメージ、これは実は人間が考えがちなイメージだと思います。2000年前のイエスの時代もそうでした。
 当時のファリサイ派の考えでは、神が昔モーセをとおして与えた律法という神の掟があって、それを学び、守っているかというのが人間にとって一番大切なこと、それが人間をはかる尺度になっていました。ファリサイ派とか律法学者という人々は熱心にそれを学び、研究し、忠実に実行しようとしていました。そして、自分たちは80点。律法を知らない無学な民衆は40点ぐらい。徴税人のようなどうにも神から離れた罪びとと言わざるを得ない人は10点、20点。それくらいに考えていたと思います。人をそうやってみていたのですが、それは神が定めた基準であり、神様というのはそうやって人を評価している方だとあたりまえに信じていました。

 彼らの目から見てイエスという方は何点ぐらいに見えたでしょうか。もしかしたら80点か90点。とても素晴らしい方に見えていたのかもしれません。福音書の中で、最初のころ、イエスご自身のことはほとんど問題にされていません、問題はイエスの周りにいた人々でした。
 イエスの弟子はガリラヤ湖の漁師をはじめ「無学な普通の人」でした。彼らは、食事の前に、宗教的な清めのために手を洗うこともせず、労働を禁じられているはずの安息日に麦の穂を摘み、自発的な断食も熱心に実行していませんでした。そういう宗教的ないい加減な人々を弟子にしていることを非難されたことはたびたびありました。でもイエスご自身の行動はファリサイ派から見ても決して非難できることではなかったようです(安息日のいやしは別ですが)。ファリサイ派が見て、非難すべきことはイエスの付き合っていた人々のことでした。今日の福音の箇所はまさにその問題です。

 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」
 食事をするのは、神の救いの共同体を目に見える形で表すことでした。だから当時のユダヤ人たちは決して異邦人と一緒に食事をしませんでしたし、ファリサイ派の人たちは自分たちのグループだけで食事をしていた。それが当たり前の世界でした。それなのになぜイエスはあんな連中と一緒に食事をしているのか!

 神は雲の上から人間を採点しているような方ではない、これがイエスの答えです。神は迷った一匹の羊を見捨てることなく、探し求め、見つかったら大喜びするこの羊飼いのような方であり、なくした銀貨を諦めることなく探し続け、見つかったら大喜びする女性のような方であり、自分のもとを出て行った次男の帰りを待ち続け、さんざん遊び暮し、ボロボロになって帰ってきたその息子を見つけて、胸を痛め、ご自分のほうから走り寄って我が子として抱きしめる、この父親のような方だ。だからイエスは「わたしもこの人々、罪びとのレッテルを貼られて、まったく神から程遠いと思われているような人々を、招き、一緒に食事をしているのだ」とおっしゃろうとしているのです。

 問題は、この神のこころを受け取るかどうかです。繰り返しますが、神は天の高みから。人間を採点しているような神ではありません。本当にすべての人の痛み、苦しみを見て、胸を痛め、その人間を救うためにご自分のほうから近づいてきて、人々の傷をいやしてくださる、それがイエスの伝えた神の根本的なイメージです。この神のこころを受け取ること、これがキリスト教信仰の出発点なのです。
 旧約聖書の原点も同じです。出エジプト記3章で神はモーセにはじめて姿を現しますが、そこでこうおっしゃいます。

 7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。8それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。9見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。10今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 こうして神の救いのわざが始まったのです。人間の苦しみを見、叫び声を聞き、痛みを知り、それゆえ、神の方から人間に近づいてきてくださる神、これこそが聖書が伝える神の姿であり、神のこころです。この神のこころは、今日の第一朗読の箇所では、罪をおかした民をそれでもゆるすという神の姿につながっています。
 この神のこころを受け取ること、信仰とはそれに尽きます。今日もミサの中で、この神のこころを受け取り、すべての人の救いのためにご自分のいのちを差し出してくださったイエスのこころ・イエスの愛を本当に深く受け取っていきたいと思います。



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