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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第27主日



初めて八木山教会に行ってきました。これで仙台教区第6地区の教会はすべてまわったことになります。
でも、写真を撮り忘れたので、小高のとうがらし(鷹の爪)の写真です。
これは援助マリア会修道院の庭で育てていたものです。
というわけで、いつもの説教メモをどうぞ。

●年間第27主日
 聖書箇所:ハバクク1・2-3, 2・2-4/二テモテ1・6-8, 13-14/ルカ17・5-10
             2019.10.6仙台・八木山教会
 ホミリア
 フランシスコ教皇は今月を「福音宣教のための特別月間」と定めました。英語では、「Extraordinary Missionary Month」と言います。missionaryは普通「宣教師」と訳される言葉ですが、ここでは違います。この月間のテーマは“Baptized and sent”(洗礼を受け、派遣される)というもので、特別な「宣教師」がテーマではなく、洗礼を受けたすべての人が神から派遣されているということがテーマなのです。
 フランシスコ教皇は以前からこのことを強調しています。2013年、教皇になられた年に出された最初の使徒的勧告は「新しい福音宣教」をテーマとした『福音の喜び』でした。その中にこういう言葉があります。「洗礼を受けて、神の民のすべてのメンバーは宣教する弟子となりました。・・・福音宣教にかかわることをためらわないでください。なぜなら、救いをもたらす神の愛を経験している人ならば、それを告げに出向いて行くための準備の時間を、さほど必要とはしないからです。たくさんの講座を受けたり、長い期間指導を受ける時間は必要ありません。イエス・キリストにおいて神の愛に出会ったかぎり、すべてのキリスト者は宣教者です。」(EG120)

 ここで「宣教」とか「福音宣教」と訳されていますが。これは曲者です。「宣教」というと「教えを宣べる」あるいは「宣べ教える」という意味になりますが、元の言葉は「ミッションmission」でそんな意味はありません。「ミッション」は「遣わす、派遣する」という意味の言葉から来ています。神から遣わされること、これがミッションです。何のために? それはもちろん神の救いの喜びを人に伝えるためです。
 フランシスコ教皇は、あなたはもうイエス・キリストをとおして神の愛に出会い、救いを経験したのだから、それを伝えればいい、というのです。
 問題はどうやって伝えるか、ということ以前に、わたしたちは何をいただいているのか、ということではないか。どのように神の愛に出会い、救いを経験したのか。わたしがキリストに出会って受けたもの。いただいたもの。信仰によって生かされている部分。それは何か?それがはっきりすれば、伝えられるのではないか、そう思いませんか?

 わたしなりに、ずっと考えています。本当にわたしはイエスを知って、何を受け取ったのか、イエスを知ることによって自分の人生はどう変わったのか? 最近、それをできるだけ単純に言えば、いただいたものは「心の平和」と「生きる意味」だと言ったらよいのではないかと思うようになりました。
 わたしたちはイエスが「アッバ、おとうさん」と呼んだ神を知りました。イエスの教えと生き方をとおして、神はすべての人を造り、すべての人を生かし、すべての人を例外なく大切にしてくださる方だと知りました。本当にどんなときにも決してわたしたちを見捨てることのない神。この神を信じることによって生まれるのは何よりも「心の平和」だと思います。どこか深いところで、何があっても大丈夫と感じていられる。

 「いや、そんなにいつも、心が平和ではいられない」という方もいらっしゃるでしょう。わたしだってそうです。でもどこかで本当の心の平和を得たいと願っているし、それはイエスがアッバと呼んだ方とのつながりの中でしか得られないということを、知っています。ものに頼ったり、お金に頼ったり、地位や人の評価に頼っても本当の心の平和は得られない。本当に神からくる平和をいただきたい。
 いや、難しいです。今の時代、実に多くの人が不安を抱えて生きています。心の中にいろいろな傷や、恨みや、敵意や、嫉妬心や、さまざまな欲望、、、心の平安は得られないのです。でも、今日の福音でイエスはおっしゃいます。
 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」
 本当の平和は神からしか来ません。ですから与えてくださいと祈るのです。そして祈って少しでも与えられたらそれを人にも伝えたいと願うのです。

 信仰がわたしたちに与えるのは「心の平和」だけではありません。もう一つ大切なのは「生きる意味」だと思います。「わたしの人生は神の目から見て、大切な意味がある」という感覚です。これをミッションの感覚と言います。わたしが生きているのは単なる偶然ではない。わたしは神から何かの役目・使命をいただいている。
 これもいつもそう感じられるかといえば、簡単なことではありません。自分なんか何もたいしたことはできないし、自分が生きていることにたいして意味なんて感じられない。そう思っている人はたくさんいます。消費社会、競争社会、格差社会、と言われるこの世界にあって、自分には自分の神からのミッションがあると感じることは簡単じゃない。でもわたしたちはそれも信仰によって、ミッションを感じ、生きている意味を感じられるようになります。たとえたいしたことは何もできないと思っても。

 先週、10月1日は幼いイエスの聖テレジアの祝日でした。24歳で亡くなったカルメル会の一修道女です。彼女は自叙伝の中にこういう箇所があります。キリストの体である教会の中で、あれにもこれにもなりたい。宣教師にも、殉教者にも。でも現実の彼女は病弱な一修道女。何もできない。でもそこで気づく。教会というキリストの体の中には心臓があるはず。その心臓は愛に燃えているはず。わたしはその愛になろう。何もできなくても、小さなことに愛を込めることができる。それだけで十分。「わたしの天職、それは愛です」とテレーズは言いました。教会は彼女を教会博士として記念しています。人々の信仰生活にとって大切なものを示したからです。これを「小さい道」と言います。

 祈ることしかできないかもしれない。それでも祈ることがわたしのミッションだと受け止めることができる。苦しくて苦しくて祈ることさえもできない、ということもあります。でもただ苦しみをとおしてイエスの十字架に結ばれているというだけでも。それでも生きている意味があるのです。
 この「心の平和」と「生きる意味」。わたしたちがそれを持っているから人に与えよう、ということでもないと思います。イエス・キリストによってこそ、この「心の平和」と「生きる意味」が得られる。そのことを少しでも経験しながら、出会う人々と一緒に本当に心の平和と生きる意味を探し求め、祈り求めていく。これがわたしたちキリスト者のミッションではないかと思います。

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