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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第32主日



先週は何だかんだで、説教メモを載せられませんでした。失礼しました。
今週はなんとか!

●年間第32主日
 聖書箇所:二マカバイ7・1-2、9-14/二テサロニケ2・16~3・5/ルカ20・27-38
           2019.11.10カトリック原町教会
 ホミリア
 11月は死者の月。典礼暦でも終末主日を迎えていて、終末を思うとき。終末とは世の終わりのことでもあり、個人の終わりである死のことでもあります。死にあたってのキリスト者の希望は、一言で「復活」という言葉で表されます。でも、わかりやすいとは言えないでしょう。
 ある仏教の葬儀に言ったときです。お坊さんの法話の中で、こういう言葉がありました。
 「仏教では、キリスト教のように亡くなった人が『復活』するなどという馬鹿なことは言いません」いいお坊さんなのですが、当たり前のようにこう言ったのです。
 使徒言行録の中で、パウロがアテネで説教をしたときもそうでした。
 パウロはギリシア人が拝んでいる神々を頭から否定するのではなく、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを知らせましょう」と言って、天地万物を造られた神のことを語りました。そこまでは人々の反応は悪くなかったようです。しかし、イエス・キリストの復活のことを話すとこういう反応になりました。
 「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」(使徒言行録17・32)
 とてもすんなり受け入れてはもらえなかったようなのです。
 今日の福音でもサドカイ派は復活を認めなかったとあります。

 まあ、頭で考えれば、死んだ人が復活するというのはありえないわけです。復活なんてない、というほうが合理的なのは確かでしょう。
 旧約聖書の中でも、もともとは死んだ人は「シェオール」というところに行く。「陰府」と訳されますが、そこは暗く静かなところで、そこでは神とのつながりも人とのつながりもなくなってしまう。そんなふうに考えられていました。長生きして、死んで、先祖の列に加えられる。生きている間に神に従えば、生きている間に神から祝福を受け、神に逆らえば生きている間に罰を受ける。まあ、それでいいと思っていたのでしょう。
 それが変わるのは、紀元前2世紀のことです。
 紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロスという人が東のほうに領土を拡大して、広大な支配地域を形作りました。その死後、4人の将軍がそれぞれギリシア文化に基づく帝国を作りました。ヘレニズム帝国と言われます。パレスチナは最初、エジプトのプトレマイオス王朝の支配を受けましたが、その後、シリアのセレウコス王朝の支配下になります。そしてこのセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスという王のときに、ユダヤ人に対する厳しい宗教迫害が起こりました。エルサレムの神殿にギリシアの神々の像が持ち込まれ、律法に忠実に生きることが禁じられました。神に従おうと思えば思うほど、この世では苦しみを受け、中には殺される者もいる。
 今日のミサの第一朗読「マカバイ記」はまさにこの時代の記録です。その中で復活の希望がはっきりと語られるようになるのです。
 「世界の王(=主なる神)は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえらせてくださる」(IIマカバイ7・9)
 「わたしは天からこの舌や手を授かったが、主の律法のためなら、惜しいとは思わない。わたしは、主からそれらを再びいただけるのだと確信している。」(7・11)
 「たとえ人の手で、死に渡されようとも、神が再び立ち上がらせてくださる」(7・14)

 死を超えて神は救いをもたらしてくださる。神に信頼する人の神とのつながりは死によって断ち切られない。たとえ死を前にしても、わたしたちは神に信頼と希望をおくことができる。それが復活の信仰です。また、その神とのつながりの中で、どんなに悲惨な現実、絶望的な状況にあっても、今、自分にできる精一杯のことをしていく。愛すること、苦しみに耐えること、人のために祈ること、それを神からのミッションとして受け取り、精一杯生きることができる。それが復活の信仰です。
 イエスご自身がその信仰に生きました。迫り来るご自分の受難と死を前にして、イエスは最後の最後まで、神の愛とゆるしを告げて生き抜きました。それはアッバ(親)である神が決して自分を見捨てないと信頼していたからです。神とのつながりは死によっても断ち切られることはない、神は必ず自分を立ち上がらせてくださる。これがイエスの復活の信仰でした。

 ぎりぎりのところで、それでも神に従い、人を愛して生きることができるかどうか、それが復活の信仰が問いかけていることです。でもまあ、わたしたちはそんなにギリギリのところでいきているのではないかもしれません。
 今日の福音は「すべての人は、神によって生きている」というイエスの言葉で結ばれています。
 人は自分の力・人間の力で生き、死ねばすべてが終わる、という生き方をするのか(今の時代、そういう考えは強いのです)、それとも、神によって生かされ、その生かしてくださる神が、肉体の死をも超えて、わたしを生かし続けてくれると信じて生きるか。
 死ねばすべては終わるという考えは人間を刹那的にします。今、いかにいい家に住み、いいものを食べ、いい生活をするか、いかに楽しんで長生きするか。それを求める生き方です。復活を信じる生き方とは、もちろん、苦しみや死を求めるわけではないし、それなりにいい生活もしたいけれど、同時に、人間としてあるべき生き方とは何かをいつも求めながら、自分なりに誠実にそこに向かって生きる生き方なのです。
 復活の信仰とは、わたしたちの生き方の決断の問題だということ、そのことを肝に銘じながら、今日も復活の信仰を力強く宣言しましょう。


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