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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

待降節第1主日



この日の午前中、さゆり幼稚園の発表会が南相馬市民文化会館「ゆめはっと」の大ホールで行われました。
このホールでというのは初めてだったので、ミサの時間を午後に移して、教会やカリタスからもみんなで応援に行きました。
聖書の中のイエス誕生の物語を基にしたさゆり幼稚園の聖劇は毎年見ていますが、今年もすばらしかったです!

●待降節第1主日・宣教地召命促進の日
 聖書箇所:イザ2・1-5/ローマ13・11-14a/マタイ24・37-44
          2019.12.1カトリック原町教会
 ホミリア
 「目を覚ましていなさい」
 待降節は毎年、福音のこのイエスの言葉から始まります。
 いつ世の終わりが来るか分からないから、警戒していなさい。いつ来てもいいように備えていなさい。もちろんその意味もありますが、それだけではありません。マタイ、マルコ、ルカの福音書をていねいに読むと、この「目を覚ましていなさい」という言葉には、それぞれの福音でそれぞれのニュアンスがあるように感じます。今年は、マタイ福音書が読まれました。

 マタイ福音書の特徴は、この箇所に続いて、25章の終わりまで、長い説教を伝えていることです。25章には二つのたとえ話があります。一つは「10人のおとめのたとえ」そして「タラントンのたとえ」。どちらも有名なたとえ話だと思います。
 10人のおとめのたとえは、婚礼の場面で、花嫁の友人である乙女たちが10人いて、そのうち5人は松明に予備の油を備えていて、5人は備えていなかった。花婿の到着が遅れたので、備えのなかった5人の乙女は、油を買いに行き、婚礼の席に入ることができなくなってしまった。そういうたとえです。そしてこのたとえは「だから、目を覚ましていなさい」という言葉で結ばれています。つまり、目を覚ましているということは、「油をちゃんと準備していること」だということになります。
 タラントンのたとえで、問われるのは、預けられたタラントンをどう生かして用いたか、ということです。最初に預けられた額が5タラントンか、2タラントンか、1タラントンか、神様はそんなことは見ていない。最後に持っている額が10タラントンか、4タラントンか、1タラントンか、そこも神様は見ていない。預けたタラントンをそれぞれの人がどう生かして用いたか、神の前ではそれだけが問われる、という話です。これも「タラントンを活かして用いることが目を覚ましていることだ」と言えるでしょう。
 ただし、「油とは何か」「タラントンを活かすとはどういうことか」この二つのたとえ話にはなんの説明もありません。最後に25章31節から、神の裁きについて語る部分があります。

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」
 イエスは世の終わりの有様を教えようとしていうるのではなく、神の目から見ていったい何が大切なのか、何が本当に価値あることなのかを、ここではっきりと教えようとしておられます。誤解のない言葉です。そして、これこそが「ともし火とともに携えておくべき油」であり、「預けられたタラントンを生かして用いること」であり、「目覚めている」ということなのです。
 この全体の流れをしっかりと受け取ったらいいと思います。こう言いますね。
 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」
 そしてイエスはこう言うのです。
 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 神の目から見て、何がもっとも大切かをはっきりと示す箇所です。目を覚ましているとは、このこと。助けを必要としている人にどう関わったか、見捨てられ、忘れ去られようとしているような人にどう関わったか、それが神の目から見てもっとも大切なことだ、誤解の余地のないはっきりとした教えです。

 目を覚ましているとはこのこと。
 そう思ったときに、わたしたちが本当に何を見ているかも問われていると感じました。
 わたしたちはやはりついつい人を外見で見てしまっているのではないでしょうか。あの人は立派な人、あの人は優れていて価値のある人。地位や肩書きで人を見てしまうことも多々あります。それは本当に人を見ていないのではないか。そういう私たちイエスは今日、「目を覚ましていなさい」と呼びかけているのではないか。
 飢え渇き、旅をしていて、裸で、病気で、牢にいる、そういう人は有能で立派で、役にたつ、価値のある人間に見えないかもしれない。でも、その人こそ、本当はイエスの兄弟であり、イエスご自身と同じように神の子としての尊厳を持った人間なのだ、そうやって人を見ることが「目を覚ましている」ということだとも言えるのではないでしょうか。

 フランシスコ教皇が訪日して、短い時間でしたが、たくさんの場所を訪れ、たくさんの人々と出会い、たくさんのメッセージを残されました。その一つ一つをしっかりと味わっていきたいと思いますが、その中に共通して見られたのは、やはり貧しい人への思いだったと思います。
 広島・長崎の原爆の被爆者、東日本大震災と福島第一原発事故という三重の災害の被災者、生きづらさを抱えている日本の若者、外国からの移住者や難民。そういう人々に目を向けるようにと語られました。それだけでなく、その一人一人に向かって、あなたはかけがえのない人間、お金でははかることのできない価値のあるものだ、と語りかけました。そうです。人をかけがえのない兄弟姉妹と見るだけでなく、自分自身をもかけがえのない価値ある存在、神の子と見るまなざし。それこそが「目を覚まして見るということ」です。
 今日さゆり幼稚園の発表会で、すばらしい聖劇を見ました。わたしたちは今年もベツレヘムの飼い葉桶のイエスを見つめるように招かれています。小さな、小さな赤ん坊のイエス。無力で貧しい幼子の姿の中に、本当の神の子の輝きを見つけることができますように。こころをこめてクリスマスの準備をしていきましょう。
 


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