毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第29主日のミサの説教

10月16日、西千葉教会でミサを司式しました。
敬老の集いということで、懐かしいお顔をたくさん見ることができて、嬉しかったです。

●年間第29主日(マタイ22・15-21)のミサ説教

 東日本大震災から7か月がたちました。この7カ月は、日本のカトリック教会にとっても大きな経験でした。震災直後の3月16日に仙台教区サポートセンターが立ち上がりました。それは被災した教会のための活動をするところではなく、被災地域の復興のために教会としてできることをしていこう、というものでした。津波の難からのがれた教会をボランティアの基地(ベース)として用い、寝る場所と食事を提供し、そこを拠点に大勢のボランティアが働くことになりました。塩釜、石巻、南三陸、釜石で働いたボランティアの数は先日、延べで2,000人を超えたそうです。
 とは言っても、あまりに被災した地域が広くて、教会の活動はほんの小さな地域で行われているだけでした。そこで日本の教会全体でもっと広い地域に支援活動を広げようということになりました。わたしたちは福島を担当することになりました。それから福島の教会を訪問し、信徒の方やシスターと連絡を取り合いながら、少しずつ活動を始めています。

 福島に行くと、福島第一原発事故の影響の深刻さを感じます。福島市は一見、何もなかったかのような都会の生活をしていますが、原発から20キロ圏内の警戒地域(立入禁止区域)からの避難者がおおぜい来ています。今は避難所から仮設住宅に移っていますが、ある仮設住宅では、同じ浪江町の人ばかりとはいえ、元の近所づきあいをしていた人ではなく、本当に人と人とがバラバラだそうです。先日、炊き出しを行いましたが、初めて周りの人たちと話したという人もいたそうです。特に高齢の方々は孤立しがちです。
 福島市や郡山市は大きな町です。明らかに放射線の影響があります。学校や公園では除染が進められていますが、それでも子どもたちは自由に外で遊ぶことができません。特に子どもを抱えたお母さんたちは不安を抱え、子どもたちもストレスを抱えています。
 原発から24.5キロのところにカトリック原町教会があります。ここは緊急時避難準備区域でしたが、その指定が先日解除され、学校も再開し、仮設住宅が建ち始めていました。しかし、教会の70人ぐらいいた信徒のうち、今いるのは十数人です。教会付属の幼稚園も除染は終わりましたが再開できません。子どもがほとんどいなくなっているのです。
飯館村のように原発から30キロ以上離れていても放射線量が高く、人が住めないところもあります。車で通りましたが、人家は空き家で、店は一軒も空いていません。田んぼだったと思われるところは、ただの草むらになっています。
避難している人は福島県内だけでなく、首都圏に来ている人もいます。特に小さい子供を抱えたお母さんたちです。父親は仕事のために福島に残っています。赤坂プリンスなどの大きな避難所は閉鎖され、ビジネスホテルのようなところで避難生活をしている人もいます。勉強机もなければ、食卓もなく、子どもの遊ぶ部屋もありません。ベッドの上だけの生活です。
 近隣のコミュニティーが断ち切られ、家族のきずなが破壊され、仕事が奪われ、住まいが奪われて、人々の心の不安が広がっています。特に高齢者と子どもに大きな影響があります。取り返しのつかない、大きく深刻な現実がそこにはあります。大きな苦しみがあります。それを見て本当にわたしたちは間違っていたのだと思いました。

 わたしたちはどこかで、原発の問題は、科学や技術の問題だと思っていたのではないでしょうか。政治や経済の問題だと思っていたのです。一言でいえば、「皇帝(カエサル)の問題」だと思っていたのです。神様や信仰とは関係ない問題で、政治や科学の専門家にまかせておけばなんとかしてくれると思っていました。
 そうではなかったのです。原発の問題は神様が造られた、かけがえのない地球の自然と、人間のいのちの問題だったのです。日本の司教団は皆、そう感じるようになりました。たぶん11月に原子力発電についてのメッセージを出せると思います。基本的には原発に頼ることをもうやめよう、というメッセージです。人間の限界を忘れた科学技術万能主義、一人一人の人間を置き去りにした経済至上主義。その結果が原発事故であり、わたしたちに回心と生き方の転換が求められています。これは「皇帝のものは皇帝に」ではなく、「神のものは神に返しなさい」という世界の問題だったのです。

 すみません、今日は敬老のミサでした。「神のものは神に返しなさい」ということの一つの例として福島の話をしました。言いたいことはこういうことです。わたしたちは知らず知らずのうちにいろいろな多くのことを「皇帝のもの」にしてしまっているのではないか。わたしがいう「皇帝のもの」とは、「神様とは関係ないもの」という意味です。今日、何を食べるかというのも「神様のこと」じゃないですか。今日この電気のスイッチを切るか切らないかというのも「神様のこと」じゃないですか。
 「神様のものは神様に返しなさい」とイエスはおっしゃいます。わたしたちは人生の最後に結局、すべてを神様にお返ししていくのではないですか。その中で本当に神様とのつながりを日々の生活の中に感じていきたいし、神を愛し、隣人を愛するということの価値を見失わずにいたいのです。わたしたち皆が、本当に大切なものを大切にして歩んで行けますように、祈りましょう。


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コメント


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うちは祖父が広島で被爆して、今度は原発ですからね。人の業というものは恐ろしいです。

アズマ | URL | 2011-10-20(Thu)22:39 [編集]