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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の降誕・夜半のミサ



主の降誕おめでとうございます。
南相馬に来て4度目のクリスマスを迎えました。
今年もクリスマスカードを出す余裕がなく、クリスマス当日になってしまいました。
日ごろの無礼をお詫びします。
皆さま、どうか素晴らしいクリスマスと新年をお迎えになられますように。

クリスマスの説教はどうしても毎年、同じ内容になってしまいます。
でもこれが一番大切なメッセージだと思いますから、毎年語り続けたいと思います。

●主の降誕・夜半のミサ
 聖書箇所:イザ9・1-3, 5-6/テトス2・11-14/ルカ2・1-14
        2019.12.24カトリック原町教会
 ホミリア
 ご存知の方も多いと思いますが、わたしはずいぶん前からほそぼそとブログをやっています。ほとんど説教のメモを載せているだけのブログですが、このブログのタイトルは『毎日がクリスマス』と言います。今日はクリスマスですが、わたしがなぜ「毎日がクリスマス」と言っているか、そのことを分かち合いたいと思います。

 『毎日がクリスマス』というブログの書き手ですから、もちろんクリスマスにはこだわりがあります。特にこだわりを持っているのは「飼い葉桶」です。イエスの誕生の場面の特徴は何と言っても、生まれた幼子イエスが飼い葉桶に寝かされたということだからです。
 飼い葉桶のことを、日本語で「まぶね、うまぶね」とも言います。そこから連想して、イエスが生まれた場所を「うまや」とか「馬小屋」ということがあります。日本語の「まぶね」や「うまや」は馬だけでなく、牛のためでもありました。農耕で使う家畜の餌を入れるのが「まぶね」で、その動物を飼っていた場所が「うまや」でした。昔の日本だとそこにいたのはふつう馬や牛でした。いつも間にか、もっとわかりやすく「飼い葉桶」「馬小屋」と言われるようになりました。日本の教会では今、当たり前のように馬小屋と言っています。しかし、これは大問題です。イエスが生まれた場所に馬はいなかったからです。伝統的に描かれてきた降誕の場面でも、そこにいるのは牛とロバで、馬はいませんね。そろそろ馬がいないのに「馬小屋」と言うのはやめにしたほうがいいと思っています。最近ではプレゼピオというイタリア語も使われるようになりましたが、まだ一般的ではありません。プレゼピオは「飼い葉桶」あるいはもっと広く「家畜小屋」を指す言葉です。

 イエスの時代、イエスの国で人々が農耕や荷運びのために飼っていた動物は牛やロバでした。馬は身分の高い人の特別な乗り物、あるいは戦争のときに使う軍用の動物でした。イエスはそんな馬のいるところで生まれたのではありません。普通の人の普通の家畜が飼われている場所でイエスは生まれたのです。そのことはやはり貧しさを表しています。
 そしてその幼子の誕生の知らせを聞いたのは、当時、ベツレヘムの郊外で夜通し羊の群の番をしていた羊飼いたちでした。羊飼いというと何となくロマンチックな職業のように聞こえるかもしれません。しかし、イエスの時代の羊飼いというのは多くは雇われ人で、50頭から100頭の羊の群を追って、草のある場所を探して旅をしていくという結構厳しい生活をしていた人たちでした。イスラエルの民の先祖は皆、羊飼いのような生活をしていたと言われますが、イエスの時代には普通の人は町や村に定住するようになっていました。町の人たちから見れば、住所不定の流れ者、夜間労働者。実は羊飼いというのは蔑まれた職業だったのです。その人々に救い主の誕生が真っ先に告げられたというのです。そして彼らは幼子イエスに出会いました。家畜小屋のようなところで、飼い葉桶に寝かされている幼子だからこそ、この羊飼いたちは会うことができたのだと思います。そして喜びに満たされたと伝えられています。

 幼子イエスは何もしてくれません。パンを増やしてくれるわけでも、病気を直してくれるわけでも、立派な説教をしてくれるわけでもありません。救い主が誕生したからと言って、その幼子イエスに会ったからと言って、羊飼いたちの厳しい現実は何も変わらない。労働の苦しみも、貧しさも、町の人々からの差別の目も何も変わらない。
 でも羊飼いたちは喜びに満たされました。それは神がわたしたちを見捨てていない、と知ったからです。救い主がこんなに身近に、手を伸ばせば触れられるような姿で、こんなに近くに来てくださったと知ったからです。
 羊飼いたちの人生はある意味で昨日までとはまったく変わってしまいました。それは彼らの人生が「神がともにいる人生」になった、ということ、救い主イエスがともにいてくださる人生になったということです。わたしたちは今日、そのメッセージを受け取るように招かれています。わたしたちそれぞれの人生がどんな思い通りにいかないことばかりでも、困難や苦しみに満ちていても、人間関係や仕事の悩みが大きくても、それでもわたしの人生は神がともにいてくださる人生なんだ、わたしの毎日は主イエスがともにいてくださる毎日なんだ。そう受け取って、そこから新たに歩み始めるように招かれているのです。

 主イエスの誕生の出来事は、年中行事のように、あるいは、打ち上げ花火のように12月25日で終わってしまうような出来事ではありません。この世界を神がともにいてくださる世界、わたしの人生をイエスがともにいてくださる人生と受け取る最初の日なのです。その意味でイエスの誕生から始まる毎日がクリスマスなのです。「毎日がクリスマス」というのは、もちろん毎日お祭り騒ぎっていう意味ではなく、どんなに悲惨な日々でもその中に神がいてくださると信じて生きていきたい、という意味です。
 今も戦争やテロの恐怖におびえている人々がいます。今も経済的に追い詰められている人がいます。今も社会や人との交わりから排除されている人がいます。今も災害や病気に苦しんでいる人がいます。今も暴力や虐待に傷ついている人がいます。
 そのすべての人に幼子イエスは「ぼくが一緒にいるよ」と語りかけています。何の言葉も発しませんが、飼い葉桶の中から、「ぼくはこんなに小さく、貧しく、無力な姿でこの世に来た。それはあなたの辛さ、悲しみ、痛みを一緒に荷なうためだよ。どんなときでもぼくが一緒にいることを忘れないで」
 この幼子イエスの呼びかけを今日しっかりと受け取りたいと思います。


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