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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第3主日



南相馬市小高区の小高交流センターの一周年記念イベントに行ってきました。
そこで根本洸一さんにお会いすることができました。
根本さんは小高区の避難指示解除後、いち早く米作りを再開した方です。
郡山市の仁井田本家という酒造の「おだやか」に使われている酒造好適米・雄町は根本さんの作った米です。
今日は交流センターの直売所にご本人と奥様がいらしていて、初めてお会いすることができました。
この「天のつぶ」は福島県のブランド米ですが、自信作のようです。2kg750円!
ニンジンはおまけでいただきました。感謝!

●年間第3主日・神のことばの主日・世界子ども助け合いの日
 聖書箇所:イザヤ8・23b~9・3/一コリント1・10-13, 17/マタイ4・12-23
           2020.1.26カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音は、イエスが神の国を告げる活動を始める場面です。
 「悔い改めよ、天の国は近づいた」これがマタイ福音書の告げるイエスの第一声です。
 「天の国」の「天」は「神」の言い換えで、「神の国」と同じ意味です。「国」はギリシア語では「バシレイア」と言い、この言葉は「王=バシレウス」という言葉から来ています。「神の国は近づいた」というよりも、むしろ「神が王となってくださる」と言ったらいいと思います。
 「神が王となってくださる」長い間、人間の悪い王の支配に苦しんできた人々、特に外国の王や皇帝の力によって苦しめられてきた人々にとって、「神が王となる」というメッセージは、単純に、解放のメッセージ、喜びのメッセージでした。その意味で、イエスの時代の人々には分かりやすいメッセージだったのでしょう。
 でも今のわたしたちにとってはどうでしょうか? わたしたちは必ずしも、だれかが王として支配していて、そのもとで苦しんでいる、とは感じていないのではないでしょうか? そういうわたしたちにとって、神が王となる、と言われてもピンとこないかもしれません。

 でも実は、わたしたちを支配しているものがあるのではないでしょうか。「支配」といいうより、「振り回される」と言ったら分かりやすい? わたしたちは何に振り回されているでしょうか。人に振り回されている、とか、時間に振り回されているということがありますね。でもそれだけでなく、たぶん「お金と欲望」に振り回されているということがたぶんだれにでもあるでしょう。
 わたしたちの生きている社会は消費社会と言われます。ここでは、ほしいものを手に入れたいという欲望はコマーシャルによって常にあおられています。何かを手に入れても、次から次へとほしいものが出てきます。もっと豊かな生活、もっと便利な生活、もっと快適な生活。それを求めるわたしたちの欲望には際限がないように感じられます。お金はいくらあっても足りません。だから欲望に振り回され、お金に振り回される。やはり「金と欲望がわたしたちの王となっている」という現実があるのではないでしょうか?

 そこにある問題の一つは結局、ほしいものを思うように手に入れることができないという不満です。欲望には際限がないので、いつも不満なのです。特に人と比べてしまうと、自分はあれもこれも持っていない、という不満をいつも感じてしまう、そんなことが無駄に繰り返されています。「お金や欲望が王ではなく、神が王になってくださる」そう思えたら、それは解放のメッセージになるのではないでしょうか。イエスはおっしゃいます。
 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(マタイ6・26)
 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイ6・28-29)
 本当に神は王として、わたしたちすべてをいつくしみ、わたしたちに必要なものをすべて与えてくださる。その神に信頼したとき、わたしたちは「お金や欲望」に振り回される世界から解放されていくのです。

 「お金や欲望が王となり、わたしたちを振り回す」ことの、もう一つの問題は格差であり、排除です。お金と欲望は結局のところ、人と比べてどれだけ持っているか、の競争の世界になりますから、格差がどんどん広がり、人のことはどうでもよくなってしまいます。人と人とが兄弟姉妹として生きるのではなく、他人は競争相手になり、あの人は役に立たない、この人はいらない。そんな見方で人を切り捨ててしまうのです。
 その中でイエスは、「神が王となってくださる」というメッセージを語られます。神が王となるというのは、人間を超えた絶対のものが存在すると信じること、その神がわたしたちの存在を根底から支え、わたしたちすべてのもののいのちを生かしてくださると信じることです。そこではわたしの存在が無条件に良しとされるだけでなく、他者も(すべての人も)無条件で良しとされる、誰もがなくてはならない存在なのです。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)
 神を父とし、すべての人を兄弟姉妹として受け入れる。これも解放された生き方です。「神が王となる」というのは、絶対君主のような神によって縛られた、がんじがらめの生き方をする、ということではありません。この世の、わたしたちを縛り付けている力から解放されて、自由に生きることなのです。
 「天の国は近づいた、神が王となってくださる」そのイエスの招きを今日改めて、受け取りたいと思います。

 「神が王となってくださる」というのは即位の礼や、大統領の就任式のようなものではありません。テレビを見ていて、神が王となるというニュースが流れるわけではないのです。このわたしが今日、神を王として生きよう。そう気づくところからしか始まりません。
 「悔い改めよ、天の国は近づいた」。神が王となってくださる。その神に心を向け直しなさい、とイエスは呼びかけました。今日の箇所で、さらにイエスはガリラヤ湖の漁師だったペトロたち、一人一人に声をかけました。「わたしについてきなさい」
 イエスの呼びかけにこたえ、イエスと共に歩み始める。そこから神の国は始まっていくのです。わたしたち一人一人が今日、「神が王となってくださる」という解放の福音を改めて深く受け取り、その喜びに生きるものとなりますように。アーメン。



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