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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

主の奉献の祝日



写真は元寺小路カテドラルの近くにあるカトリック北仙台教会です。
カナダのドミニコ会が建てた教会で、とっても立派な教会です!
(この日は、午後にこちらで講演をしました)

●主の奉献(祝)
 聖書箇所:マラキ3・1-4/ヘブライ2・14-18/ルカ2・22-40
           2020.2.2カトリック元寺小路教会
 ホミリア
 「わたしはこの目であなたの救いを見た」
 生まれて40日目に、エルサレムの神殿に連れてこられたイエスを見て、シメオンはそう歌いました。これは今日の主の奉献の祝日のテーマとも言えるような言葉です。「わたしはこの目であなたの救いを見た」シメオンにとって、それはもう、これで死んでもいい、と思えるほどの最高の喜びでした。聖書はそのように「わたしたちこの目であなたの救いを見た」という体験をした人々の物語です。ルカ福音書の幼子イエスの誕生をめぐる物語を思い出してみましょう。

 何よりもまず、マリアがそうでした。ナザレに住んでいたおとめマリアは天使のお告げを受けました。「おめでとう、恵まれた方、主はあなたとともにおられます」そして救い主の母となると告げられました。マリアは救いを待ち望んでいたすべての人を代表して、救いの到来=救い主の誕生のメッセージを受け取りました。これはマリアにとって、「わたしはこの目で神の救いを見た」というような体験だったと言えるのではないでしょうか。この受胎告知=神のお告げの祭日は3月25日に祝われます。主の降誕の9ヶ月前ということになります。

 そして、マリアは洗礼者ヨハネの母となるエリサベトを訪問しました。そこでマニフィカト=マリアの賛歌を歌います。
 「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。」
 確かにもう神の救いを体験したという確信に満ちている言葉です。このエリサベト訪問は5月30日に祝われます。6月24日の洗礼者ヨハネの誕生の祭日の前に祝うのです。

 そしてイエスがお生まれになったあの降誕の夜、「この目で神の救いを見た」という体験をするのは、ルカ福音書によれば羊飼いたちでした。貧しい羊飼いたちは、「布にくるまって飼い葉桶に寝ている幼子」に出会います。本当に貧しい姿で世にこられ、貧しい人とともにいてくださる救い主に出会い、そこに「神の救いを見た」のです。それが12月25日、クリスマスの祝いです。

 マリアとヨセフや羊飼いたち、彼らは確かに、神の救いを見ました。クリスマスを中心とした一年の典礼の中でこれらのことは祝われています。もう一度言いますが、クリスマスの9ヶ月前が神のお告げ、半年前が洗礼者ヨハネの誕生。そしてクリスマスの後、40日目が今日の主の奉献=神殿でのシメオンやアンナとの出会いの物語です。
 クリスマスを中心とした祝日では、イエスはまだ幼子で、何の言葉を語ることもなく、力あるわざを行うこともありません。でもそこにもう神の救いが輝き始めている、人はそのイエスの中に神の救いを見た、これが大きなテーマなのです。その流れで今日の福音を受け止めたいと思います。シメオンやアンナは人生の最後に幼子イエスと出会い、「神の救いを見ました」

 2000年前に成人したイエスの活動を見た人々は、そのイエスをとおして「神の救いを見ました」。福音書にはそのように「神の救いを見た」人々の物語が書き記されています。そして、最終的にイエスの十字架を見た人々のことも伝えています。
 ルカ福音書によれば、一緒に十字架に付けられていた犯罪人の1人は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。そしてイエスは彼に向かって、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました(ルカ23・42-43)。この人も人生の最後に神の救いを見たと言えるでしょう。

 わたしたちも「神の救いを見た」と言えるでしょうか?そう言えるという方もいらっしゃるでしょうし、そんなにはっきりと「神の救いを見た」とは言えないという方も多いでしょう。でもやっぱりわたしたちはシメオンのように「わたしはこの目で神の救いを見た」と言いたいのです。わたしたちはどうしたら、「神の救いを見た」と言えるようになるのでしょうか。
 わたしたちがいただいているのは、やはりみ言葉と聖体です。わたしたちは、み言葉と聖体をとおして「神の救いを見る」のです。日曜日に教会に来て、聖書朗読を聞き、聖体をいただく。それは本当は「神の救いを見る」ということそのものなのです。でもただ日曜日のこの一時間の中で考えても仕方ない。本当に日々の生活の中でそのみ言葉を生き、聖体の恵みを生きる、そうしたときに、ミサの中でみ言葉と聖体をいただくことは「神の救いを見る」体験になっていきます。わたしたちが日々の生活の中で、わたしたちとともにいて、わたしたちを支え導いてくださっている主イエスを感じることができますように、心から祈りたいと思います。

 わたしたちは、人生の終わりに、死をとおって、決定的な神との出会いがある、と信じています。そのときにほんとうに、「わたしはあなたの救いを見た」と言えるのかもしれません。それも大切なことだと思います。今日のシメオンやアンナは世を去る前にイエスに出会いました。そして、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言います。それは今まで救いがなかったという意味ではないでしょう。彼らにとって、幼子イエスとの出会いの体験は、今までの人生すべてが意味のあるものだったと受けとる体験だったはず。わたしたちの人生もきっとそうです。その希望をもって今日もミサを祝いたいと思います。


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