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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

三位一体の主日



「鯵のたたき」のつもりが「鯵のつみれ揚げ」になってしまいました。
でも美味でした!

●三位一体の主日(祭)
 聖書箇所:出エジプト34・4b-6, 8-9/二コリント13・11-13/マタイ13・44-46
          2020.6.7非公開のミサにて
 ホミリア
 昨日スーパーに行ったら、大きめの鯵が1匹100円で売っていました。買い物の予定外でしたが、これを見てしまったら買わずにはいきませんでした。鯵を食べたいというよりも、たまには魚を調理したい、というほうが強かったのかもしれません。魚をおろすのは慣れの問題なので、時々やっていないとうまくできなくなります。鯵は「たたき」にしようと思ったのでが、思ったより鮮度が良くなかったので、「つみれ揚げ」にしました。ところで、このように魚を調理するために切り分けることを「魚をさばく」と言いますね。「紙をさばく」という言い方もあります。コピー用紙なんかをパラパラして間に紙の間に空気を入れることです。「さばく」という大和言葉は「一緒になっているものを分ける」という意味合いなのだと、昔どこかで読んだ記憶があります。
 「神の裁き」というときの「裁き」も元々は善と悪がはっきりしないで一緒になっているところをはっきり分ける、白黒つける、きちんと判決を下す、という意味だったのでしょう。だから良い判決を下されることもあるのですが、日本語で「裁き」というとどうしても良くないイメージになりがちです。確かに「裁く」という言葉が「断罪する」という意味で使われることも多くて、そのイメージがどうしても強くなってしまうようです。同じことは実は聖書の中の「裁く」という言葉にもあてはまります。

 今日の福音には「裁く」という言葉が何度も出てきます。
 17節「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」これはまさに「断罪する」の意味で、神は世を断罪するためにイエスを遣わしたのではない、と言います。
 18節「御子を信じる者は裁かれない」はやはり「断罪されない」という意味です。「信じない者は既に裁かれている。」の「裁き」はやはり「断罪される」の意味でしょうか? それともちょっと違うようです。続く箇所が大切です。
 「19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

 神がその人を罪に定めるとか、断罪する、というのではないのです。闇の世界に、イエスは圧倒的な光として来られた。その光を受け取るか、それとも光に背を向けて闇の中に留まるか。それがそのまま裁きになる、すなわち救われない状態なのだというのです。神がこの人には光、この人には闇を割り当てる、そんな裁きじゃないのですね。
 イエスは圧倒的な光としてこの世に来た。これがヨハネ福音書の確信であり、キリスト教の確信です。その光を受け入れて、その光の中を歩もう。これがキリスト教です。
 イエスのもたらした光、それはわたしたちが皆、神の子であり、神はわたしたちを限りなく大切にしてくださる方。その方からわたしたち一人一人は「お前は生きていていい。お前が生きていることは素晴らしい。わたしはお前のいのちを望み、お前が生きることを喜びとする」と語りかけられている。だから、すべての人がかけがえのない存在であり、人種・民族・国籍などによらず、すべての人が同じ尊厳を持っている、そう信じてお互いを大切にし合おう。これこそイエスがもたらしたものであり、これこそが光です。

 一方で、現実の世界は闇に閉ざされていると感じることも少なくありません。新型コロナウイルスは闇ではないと思います。確かに深刻な問題だし、悲惨なこともたくさんあります。でもその中で必死にいのちを守ろうとしている医療関係者の姿があったり、少しでも助け合おうという人々の姿を見たときに、そこには光があります。コロナウイルスそれ自体が闇なのではない。そうではなく、このコロナの状況の中で、政治権力やお金の力が人と人とを引き裂いていく、これこそが闇だと感じます。
 言論の自由を奪い、反対する者を力で押さえつけようとする独裁的な政府もあります。
 人々の分断をあおって、選挙に勝ちさえすればいいという大統領もいます。
 何をやっても、ウソと利権がらみの構造ばかりが出てくる政府があります。
 人類の共通の問題として、すべての人が一緒になって取り組まなければならないはずのときに、まだ自分たちの権力や利権ばかりを求めている世界。そこにすごい闇を感じます。いや、キリスト教だって、2000年の歴史を見れば、そんな闇の力に引きずられていったことが何度もありました。
 
 しかし、イエスはまことの光として来られたのです。わたしたちはそのことを信じます。十字架でわたしたちのためにいのちを差し出してくださったイエスこそがわたしたちの光です。そして、あのイエスがなさったすべてのことは、あれはイエスが一人で勝手にしたことではない、永遠の父である神ご自身がイエスをとおしてあの救いのわざをなさったのです。今日の福音の言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」という言葉はそのことを宣言しています。神ご自身の愛の最高の現れがイエスの生涯であり、十字架の死であり、復活だったのです。そしてその神は今も、聖霊というかたちで、わたしたちにご自分のすべてを与え続けている。聖霊という形で一人一人の中にとどまり、わたしたちを支え、わたしたちの中で働き、わたしたちを導き続けている。
 そう信じて、世の光であるイエスを見つめ、闇から光に向かって日々歩み続けることができるよう、このミサの中で祈りたいと思います。


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