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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第12主日



カトリック原町教会では、一般の会衆の参加するミサが今日から再開されました。
全員マスクをし、人と人との間に距離をとっています。消毒なども欠かせません。
会衆席はほぼ半数に減らし、ミサも7時と10時の2回にしました。
それでも久しぶりに再会できた方々はとても嬉しそうでした。

●年間第12主日
 聖書箇所:エレミヤ20・10-13/ローマ5・12-15/マタイ10・26-33
               2020.6.21カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今年の年間主日では、マタイ福音書が読まれていきます。四旬節・復活節の長い中断を経て、今日の箇所はマタイ10章の途中からです。マタイ福音書10章は、イエスが12人の弟子を選び、派遣するにあたっての長い説教という形ですが、その中のかなり大きな部分でイエスは弟子たちが受けることになる迫害について語ります。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」という16節の言葉に始まり、弟子たちが必ず迫害を受けると予告します。今日の箇所もその流れの中にあります。

 2000年の歴史の中で、キリスト者は確かに繰り返し迫害を受けてきました。キリスト教は最初の300年間、古代ローマ帝国の中にあって禁じられた宗教であり、厳しい迫害を受け、多くの殉教者を出しました。日本でも16世紀にキリスト教が伝えられてしばらくすると迫害が始まり、250年以上に及ぶ厳しい禁教の中で、おびただしい数の殉教者が出ました。今も世界各地で迫害を受けている兄弟姉妹がいます。キリスト教会をねらった爆弾テロはさまざまな場所で繰り返されています。政府から厳しいコントロールを受け、否応なくそれに従わされているキリスト者もいます。
 キリスト教はなぜ迫害されてきたのでしょうか、そして、今も迫害され続けているのでしょうか。もちろんその時代、その地域特有の問題があります。例えば、キリシタン時代の日本で言えば、キリスト教宣教とポルトガル・スペインの植民地政策と結びつきが疑われ、当時の日本人や日本の権力者にとって脅威と映ったから、というような理由もあります。しかし、もっと根本的な理由は何か。それを考えるときに、思い起こさなければならないのは、イエスご自身が迫害を受けたということです。なぜイエスは迫害を受けたのか、それと同じ理由がキリスト者が迫害を受けるもっとも根本的な理由であるはずです。

 イエスはなぜ迫害を受けたのか、それはイエスのメッセージと行動が当時の宗教的・社会的有力者たちの地位や利益をおびやかすものだったからです。当時の社会はローマ帝国という絶対的な力の支配下にあり、その植民地であるユダヤ人たちは圧迫を受けていました。その中で、しかし、ユダヤ人たちは自分たちこそは神の民であるという優越感を持ち、他の民族を蔑み、排斥する感情を持っていました。神殿とそれに結びついた有力者たちに富が集中し、貧しい人は打ち捨てられていました。自分たちこそは律法を忠実に守っていると考えた宗教的エリートであるファリサイ派・律法学者は、貧しい民衆を「律法を知らない、呪われたものたち」と見て、軽蔑していました。他にも、病気の人、障がいを持つ人、職業によって罪びとのレッテルを貼られ、神の救いから切り捨てられた人。その社会の価値観の中で一人前の人間として認められていなかった女性や子ども。

 そんな現実の中で、イエスは「神はすべての人の父(アッバ)である」と教えました。その神はどんな人も例外なく、すべての人を生かし、すべてのいのちを大切にしてくださる方だと教えたのです。
 そのメッセージは狭いグループ意識によって成り立っている世界、内輪の世界と外の世界を分け、自分たちさえ良ければ、と思っている人々の考えを打ち砕くものでした。
 それはまた、力によって人が人を支配する世界、結局のところ、お金や武力を持つものが、弱い人・貧しい人を支配するのがあたりまえという世界を打ち砕くものでした。
 さらに、人と人との比較や競争で成り立っている世界、人と人とを比べて、自分のほうがあの人より優れているという自己満足にふけったり、この人たちのほうがあの人たちより価値がある、という差別意識を抱くことを打ち砕くものでした。
 イエスはこのメッセージをただ言葉で語ったのではありませんでした。具体的な行動、特に打ち捨てられた人々との関わりをとおして、神がすべての人のアッバであり、すべての人は等しくその神の子、互いに兄弟姉妹であるというメッセージを伝えたのです。だから、イエスは迫害を受けました。

 イエスが迫害されたのなら、イエスの弟子たちも迫害を避けることはできません。イエスは迫害がなくなることを約束しません。しかし、今日の箇所でこう約束します。
 「29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 神はあなたがたを決して見捨てることはない。これがイエスの約束です。だから、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」とおっしゃるのです。これも大きな約束です。
 
 さて、わたしたちは迫害されていませんよね。その理由は二つに一つだと思います。
 一つはわたしたちの周囲の人々がどこかでイエスのメッセージに賛成してくれているということ。すべての人は性別や能力や人種・民族・国籍の違いにかかわらず、すべての人に同じ尊厳があり、すべての人が尊重されるべきだというイエスのメッセージの根本を受け入れてくれているという理由。確かにそう感じることはたくさんあります。だとしたら本当にそれは素晴らしいことだと思います。感謝です。
 でももしかしたら別の理由かもしれません。それはわたしたちキリスト者がこのイエスのメッセージから離れ、そうでない考えに妥協しているから、という理由です。結局のところ、お金の力や軍事力への依存、ナショナリズムや民族主義、そういうすべてに妥協してしまっているから迫害されない、ということもありえます。いや、そんなことはない、と言い切れるでしょうか。今日の福音をとおして、イエスはわたしたちキリスト者の生き方を鋭く問いかけていると思います。


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