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毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第13主日



カリタス南相馬では7月から少しずつボランティアの受け入れを再開しようと準備をしています。
食卓用に、アクリル板(じゃなくて塩ビだそうです)のついたてを作ってもらいました。
黙って食事をするというのはどう考えても無理ですから。

●年間第13主日
 聖書箇所:列王記下4・8-11, 14-16a/ローマ6・3-4, 8-11/マタイ10・37-42
              2020.6.28カトリック原町教会
 ホミリア
 新型コロナ感染症の流行が始まってから、人と人との距離ということをずいぶん意識するようになりました。social distanceという言葉もよく使われています。social distanceとはどれくらいの距離のことか、はっきりしないですね。2メートルと言われたり、1.8メートルと言われたり、かと思えば「少なくとも1メートル」と書いてあったりもする。もっとはっきりさせてくれれば助かるのに、と思ってしまいます。わたしたちの聖堂での距離はどうでしょうか。ギリギリかも。
 「少なくとも1.2メートル以上の距離を取る」という言い方もあるそうです。調べていくと、この1.2メートルというのはpersonal distanceとsocial distanceの境目だという説明がありました。1.2メートルというのは、お互いに手を伸ばせば触れ合うことができるかどうかの境目であり、パーソナルな関係を持った人ならこれ以上近づいてもいいけれど、ビジネスの相手のような他人にはこれ以上近づいてほしくない距離ということのようです。「social distancing」というのはそういうこと。ある程度の親しさを表すような距離はダメ。パーソナルな関係を取れるような距離はダメ。それ以上の距離を取って人と関わるのであれば、ウイルスはうつらない、という考えですね。そう考えると非常に厳しいと思います。なぜなら人間はやはり、人との間に個人的に親しい関係を持ちたいと思いますし、それなしには人間とは言えないのではないか、とさえ思うからです。
 家族との距離というのも問題になっています。外出自粛で在宅の時間が増えたことによって、ドメスティックバイオレンスや児童虐待の危険が増してしまっている、という話があります。在宅勤務やリモート授業のために、夫婦や親子がいつも一緒にいるのに耐えられない、という家庭もあると聞きます。まあ家族にもそれぞれ事情があって難しいですね。

 今日の福音の言葉は、わたしたちにどんな光を与えてくれるでしょうか。
 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
 何よりも家族が大切、家族と自分のいのちより大切なものはない、そう思っているのが普通だとしたら、この言葉はぜんぜんありがたくない言葉です。でもイエスは家族よりも、身の安全よりも大切なものにわたしたちを招いていることは間違いないでしょう。
 イエスご自身の生き方を思い出してみましょう。イエスもある時、家族を捨てて家を出ました。そのとき、ヨセフはたぶん亡くなっていましたから、マリア一人を残して家を出てしまったわけです。その後のイエスの母に対する態度はとても冷たいものです。
 マルコ福音書では、イエスの母と兄弟姉妹がイエスに会いに来ると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟姉妹とはだれか」と答えています。ヨハネ福音書のカナの婚礼の場面では、「女よ、わたしとあなたにどんな関わりがあるのです」というような言い方をしています。どちらも突き放したような言い方です。イエスは、神はすべての人の親(アッバ)であると教え、すべての人はその神の子であり、互いに兄弟姉妹であるという世界を生きているのですから、自分の肉親の家族は後回しにしたと言わざるをえないでしょう。

 だからこそ、印象的なのはヨハネ福音書19章の十字架の場面でのイエスと母との出会いです。そもそもカナの婚礼の場面でもイエスは「わたしとあなたにどんな関わりがあるのです」と言ったあと、「わたしの時はまだ来ていません」と言っています。それはイエスの時、すなわち十字架の時にマリアに再び出会うということを予告する言葉だったとも言えるでしょう。十字架の場面にはマリアがいて、そこに一人の弟子もいます。母に向かって「これはあなたの子です」と言い、弟子に向かっては「これはあなたの母です」と言われました。ただ単に「これから母の世話を頼むぞ」というのではなく、マリアに「すべての弟子の母」としての使命が与えられたことだと考えられます。また、ルカ福音書の続編として書かれた使徒言行録の中には、イエスの昇天後、使徒たちとともに祈るマリアの姿が伝えられています。イエスが福音告知の活動をしている間、母マリアとの関係は絶たれていましたが、それは完全に絶縁するためではなかったのです。そうではなく違うレベルでもう一度会うため、と言えるのではないでしょうか。

 今日の箇所の言葉も完全に縁を切ることを命じているのではないでしょう。普通の親と子の関係でも似たことはあるのではないでしょうか。子どもは最初は親に密着しています。距離のない関係です。成長とともに少しずつ距離を取って行動するようになります。そして多くの場合、いつか家を出ていきます。進学や就職、結婚のためかもしれない。あるいは修道院や神学校に入るためかもしれない。親との距離はとても大きくなります。でもそれは絶縁ではなく、いつか別の仕方で出会うためと言えるのではないか。
 実はわたしは今、週のうち半分ぐらいは母の家で90歳の母と一緒にいます。前にも話しましたが、今年2月に起きた脳梗塞の後遺症で「高次脳機能障害」が残ってしまい、以前のような一人暮らしは難しくなってしまったからです。神学校に入るために家を出たのはもう40年も前のことですから、ものすごく久しぶりに母との距離が縮まっています。皆さんにはご不便をかけていますが、まあ、これもありかなと思っています。
 今日の福音の結びにこういう言葉がありました。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」今わたしは、母がわたしに一杯の水を飲ませてくれる、それくらいのことをしてくれるだけで、本当にありがたい、と喜べるようになりました。
 人と人との間に距離を置く。いろいろな事情で家族と距離を置くとか、感染症予防のために距離を置くということがあります。でもそれは関係を断ち切るためではない。距離を置くのは、もう一度本当に出会うため、そう思うことができたら、と思っています。


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