毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

四旬節第2主日のミサ説教

 今週の日曜日は四旬節第2主日でした。
 午前中は荻窪教会で森一幸神学生の助祭叙階式。
 午後はネットワーク・ミーティングのミサの司式をしました。

 助祭叙階式の説教は教区のサイトに載っています。

 ここにはネットワーク・ミーティングのほうを載せておきます。


●NWM in TOKYOのミサ説教(四旬節第2主日 マルコ9・2-10)

 わたしは参加できませんでしたが。皆さんは今日、エマオの弟子たちのことを思い浮かべながら、代々木からここまで巡礼をしました。イエスが亡くなった後、二人の弟子がすべての希望を失って、一緒にとぼとぼと歩いていました。そこに見知らぬ旅人の姿でイエスが近づき、一緒に歩いていてくださったという話です。
 本当に、わたしたちの人生の旅路の中で、いつもイエスはともにいてくださる。でもそのことに気づかないでいることが多いのではないでしょうか。どうやって、気づくのでしょうか? それがこのNWMの締めくくりのミサでお話ししたいことです。

 わたしは昨日の夜の祈りは「つみきのへや」というグループに参加しました。おじいさんが人生を回想する物語のアニメーションを見て黙想するという祈りの仕方でした。その中で「自分がイエスに出会った時のことを思い出してみましょう」という招きの言葉がありました。
 わたしも思い出してみました。20歳のころです。わたしは洗礼を受けていませんでしたが、聖書に興味があって、教会に通い始めていました。夏休みに教会の人に誘われて栃木県那須町にある光星学園という知的ハンディをもった人の施設に行きました。1週間そこに滞在して、学園の作業を手伝うボランティア活動でした。
 その1週間はわたしにとって新しい体験ばかり。農作業。カトリックの青年たちとの共同生活。聖書の分かち合い。知的ハンディの人との出会い。特に障害を持ちながら、生き生きと生きている彼らの姿に驚き、感動しました。そして、最後の日にミサがありました。その時、わたしは「イエスは復活して今も生きている、今、目に見えないけれどここにいる」ということをはっきりと感じることができました。わたしの人生は、そこからすべてが変わっていきました。
 
 その出会いは、ある意味で、今日の福音の場面のようなことだったと思います。ペトロたちの体験はすごいですね。山の上でイエスの姿が光り輝き、モーセがいて、偉大な預言者がいて、そこに自分たちも居合わせる。「先生、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」ペトロたちは本当に感動したはず。
 しかし、イエスはこのときから受難の道、十字架への道を歩み始めます。弟子たちは忘れちゃうんですね。あの素晴らしい世界。天からの声があって、イエスが神の「愛する子」として示されたこと。本当に受難の道も神の愛する子としての道であること。それをあれほどはっきりと示されたはずなのに忘れてしまう。だからイエスが捕まった時、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった(わたしにも同じような経験があります)。

 イエスのほうは忘れませんでした。自分の道。受難の道。人から見れば神に見捨てられたように見える道。でも最後までその道を歩みとおす。それは神がともにいてくださると知っているから。いつくしみ深い父である神は決して自分を見捨てず、大きな愛で自分を包み、生かし、導いてくださっていると信じ続けるからです。ゲツセマネの祈りの時もそうでした。そして十字架の上でも。
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」マルコが伝えるイエスの最後の言葉ですね。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。絶望のように聞こえる言葉ですが、実は詩編22編の冒頭の言葉。本当に大きな苦しみの中あって神に叫ぶ詩ですが、次第にこの詩は、神はそれでも決してわたしを見捨てないと確信し、神を賛美する詩になっていきます。
 イエスは決して「神が共にいてくださること」を忘れませんでした。
 そのイエスが「復活した、今もわたしたちとともに生きている」ということは、本当にどんな時も、神はわたしたちと共にいてくださるということだし、復活して今も生きているイエスが今のわたしたちとともにいてくださる、ということなんです。

 どうやって気づきますか。
 もう一つの大切な経験のことをお話ししたい。昨年の大震災の被災地でのボランティア活動です。皆さんの中にも被災地でのボランティアに行った人がいますね。昨日の仙台教区の青年の話にもあったように、カトリック教会は、塩釜、石巻、釜石、米川などの教会をボランティア活動の拠点として提供してきました。カトリック教会のボランティアの特徴は何でしょうか。それは、「晩の分かち合い」です。毎晩ボランティアの人たちは、ベースに帰ってきて、分かち合いをし、祈りをする。状況は厳しい。希望なんて簡単に見えない。でも、今日の出来事の中で、神がどのようにともにいてくださったかを発見するときを一緒に持つこと。それは本当に大きなことでした。
 どうしたらともに歩んでくれるイエスに気づくか、ここに大きなヒントがあります。人間の現実に出会うこと、非常に厳しい現実でも、その現実にしっかりと向き合うこと。生身の人間に寄り添うこと。そしてそこに分かち合える誰かがいる。一緒に祈ることのできる誰かがいる。そのときに、イエスが共にいてくださると気づく。聖書と聖体があればもっともっとそうなるでしょう。このミサでわたしたちも感じたいと思います。本当にイエスがともにいてくださることを。忘れないで。



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