

若い頃よく使っていたコンコルダンス(聖書語句索引)を久しぶりに引っ張り出してきました。
聖書の言葉の奥深さに触れることができて、時間を忘れてしまいます。
●年間第30主日・世界宣教の日
聖書箇所:シラ35・15b-17, 20-22a/IIテモテ4・6-8, 16-18/ルカ18・9-14
2022.10.23カトリック原町教会にて
ミサのはじめに
「世界宣教の日World Mission Sunday」。今年の教皇メッセージ「あなたがたはわたしの証人となる」(使徒言行録1・8)。教皇は証言することとともに「証人となる」ことを強調しています。イエスの愛の証人となる、生活の中であかしすることができますように。
ホミリア
来月末の待降節第一主日から、ミサの式文が少し変わります。これまでミサの始めのほうで、「主よ、あわれみたまえ」という言葉を唱えてきました。それが「主よ、いつくしみを」あるいは「主よ、いつくしみをわたしたちに」に変わります。どうでしょう。やはり本当は「あわれんでください」なのではないのか、という声も聞きます。「いつくしみ」では、回心の祈りとしてはなんか曖昧で、生ぬるいと感じるというのはわかる気がします。
逆に「あわれんでください」に抵抗を感じる人の思いも分かります。神の前にへりくだることは大切だと思いつつも、「あわれ」とか「あわれみ」という言葉は現代人にはネガティブな響きにしか聞こえないという面もあるのではないでしょうか。
「あわれ」という日本語は元々悪い意味ではありませんでした。「ああ」というような感嘆の言葉が古語の「あはれ」の元にあったようです。「しみじみとした感動」が元の意味です。本居宣長で有名な「もののあはれ」というのは、「しみじみとした情感」を表すと言われています。しかし、次第に「あわれ」という言葉が「みじめでかわいそうな様子」を表すようになり、「あわれむ」は上から目線で、下のものをかわいそうに思う、というニュアンス。なんとなくマイナスのイメージが強くなってしまいました。そこで、ミサのはじめにみんなで唱えるのはどうか、ということになったのだと思います。
「主よ、あわれみたまえ」の元になっているのは「キリエ・エレイソン」というギリシア語で、そこで使われている動詞は「eleeoエレエオー」です。この動詞は福音書の中で15回使われていますが、「憐れんでください」と訳されている箇所のほとんどは病気や障害などに苦しむ人の叫びです。ですからこの言葉の日本語訳としては、「あわれみ」と言ってもいいし、「いつくしみ」と言ってもいいように思います。信者でない人がミサに参加することも考えると、「あわれみ」よりも「いつくしみ」のほうが違和感がないのは確かでしょう。今回の改訂にもそういう意図があったと思います。
もう一つ面白いことがあって、古代の西方の教会でミサがギリシア語からラテン語に変わるとき、「キリエ・エレイソン」だけはギリシア語のまま残ったことです。これは言葉の細かいニュアンスよりも、神に向かう真摯な心を表す賛歌として受け取られたことを意味していると思います。今回の日本語の改訂でも、この「キリエ・エレイソン」がギリシア語のまま残されることになりました。
言いたいことは、「主よ、いつくしみを(わたしたちに)」は決して間違いではないということです。
しかし、他方でやはり「あわれみ」も捨てがたいということもお話ししたい。
今日の福音の箇所で、徴税人は「神よ、わたしを憐れんでください」と言います。ここで「憐れむ」訳されているのは「hilaskomaiヒラスコマイ」という動詞です。「エレエオー」とは違う言葉、これは福音書の中で1回しか使われていない言葉です。これはまさに「憐れんでください」なのです。本当に自分は神の前にどうしようもなく汚れていて、みじめな存在だと感じたとき、やはり、「わたしをあわれんでください」というしかない。それが本当にわたしたちの真実な姿だ。そのことは大切だと思うのです。
だからここでは「わたしを」という一人称単数なのですね。本当に神の前に一人立っている自分を意識したとき、自分はまったく神の前に立つのにふさわしくないし、ひたすら神のあわれみを待つしかない存在だと気づくのです。
みんなで唱えるときは、「主よ、いつくしみをわたしたちに」
一人で神の前に立つときは、「神よ、わたしをあわれんでください」
そんな思いでいいのではないでしょうか。
ミサの回心の祈りの中で「わたしは、思い、ことば、行い、怠りによって罪を犯しました」と告白します。ここも「わたし」すなわち一人称単数形です。ミサに大勢集まっていても、ここは一人一人が神の前に立って、自分の罪を認め、告白するのです。それに続く「キリエ・エレイソン」には「わたしを」や「わたしたちを」という目的語がありません。それを「主よ、わたしをあわれんでください」ととることもできるし、「主よ、わたしたちをいつくしんでください」と受け取ってもいいのでしょう。
ややこしいことを言っているようですが、本当に今日、お話ししたかったのは、わたしたちは皆、一人一人、神の前に立つということの大切さです。
ファリサイ派の人の祈りはこうでした。
「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」
神の前に立っているようでも、実は他の人と自分を比較して、自分を誇っている。これでは本当に神の前に立っていることにはなりません。一方の徴税人は他人と自分を比較しません。比較したらダメに決まっているからです。ただ自分のありのままを認め、神の前にありのままの自分を差し出し、神のあわれみを待つ、これが徴税人の姿勢でした。
このありのままのわたしと神との出会い、その中で神はこんなわたしを受け入れてくださり、このわたしが生きることを望まれ、このわたしを立ち上がらせてくださる。わたしはこの神のあわれみといつくしみによって生かされている。信仰とはこの世界です。そこでは他人と比較して自分を誇っても意味がないし、他人と比較して自分をダメだと決めつけても意味がないのです。
わたしたち一人一人が神の前に一人立つ、その信仰の原点にいつも立ち戻ることができますように、そしてそこにある計り知れない神の恵み、あわれみといつくしみのうちに生きることができますように。アーメン。

