毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

Merry Christmas !

2012sekiguchi

主のご降誕のお慶びを申し上げます。

昨日の夜半のミサの説教原稿です。
(写真はカテドラル大聖堂内のプレセピオです)

●主の降誕・夜半のミサ(ルカ2・1-14)
 2012.12.24 19:00関口カテドラルにて

 東日本大震災の後、2回目のクリスマスを迎えました。わたしの心には、震災と原発事故の影響に今も苦しんでいる人々のことがあります。というよりも、ほんとうに忘れてはいけないと思っています。
 先日、福島から来た若い夫婦に出会いました。福島県は縦に3つの地域に分かれていて、東から浜通り、中通り、会津地方と呼ばれています。原発は浜通りにあり、すぐ近くの地域は今も放射量が高く、立ち入り禁止や居住禁止になっています。しかし、真北や真南の地域にはあまり放射能は拡散しませんでした。放射能は北西に向かい、その後、南下しましたから、中通り地方には浜通りより放射線量がずっと高いところがあります。福島市や郡山市などです。会津はずっと西なので放射線量は低くなっています。わたしが会ったご夫婦は福島市に住んでいて、放射能汚染の影響を心配して会津地方に避難したという夫婦でした。初めは数週間のつもりでしたが、子どもを授かっていることがわかり、そのまま避難生活を続けました。福島県外に避難しなかったのは、夫の通勤が可能な場所で、しかも福島県に愛着があったためでした。

 彼らのような人々は「県内自主避難者」と呼ばれています。ところが彼らに対する県の対応は冷たいものでした。福島県としては、強制的に避難させている区域の人の世話を第一にしなければならないということで、彼らのような「自主避難者」はまったく支援の対象になっていませんでした。他の県に避難すれば、そこで住宅が提供されるというような支援が受けられるのに、福島県内に避難していると何も受けられない。経済的にどんどん追い詰められていきましたが、12月に男の子が生まれ、ますます元の家に帰ることができなくなってしまった。最終的に10月の終わりに、この家族は、福島県を離れて、隣の山形県米沢市に引っ越します。そこでは山形県や米沢市からの支援が受けられるからです。
 なぜ同じ避難者なのに、こんなに差別されるのか。なぜ避難者と避難者が分断され、一方が切り捨てられていくのか。ほんとうに涙ながらの訴えでした。そこにはご夫妻の赤ちゃんも来ていました。この3人家族の姿を見ていて、わたしは幼子イエスの家族にとてもよく似ていると感じました。

 ヨセフにとって、ベツレヘムは先祖の地でした。誰かが泊めてくれてもよさそうなものです。しかし、誰も、身重の妻を連れたこの貧しい男を受け入れてくれませんでした。お前がどうなろうと、お前の妻がどうなろうと、生まれてくるお前の子どもがどうなろうとおれたちには関係ない。冷たい拒絶を受けて、マリアは家畜小屋のようなところで、赤ん坊を産むことになりました。避難先で、ひっそりと子どもを産んだあの福島の夫婦はそれと似ていると思います。
 マタイ福音書によれば、生まれた幼子はヘロデ王に命をねらわれます。そこでヨセフはマリアと生まれたばかりの幼子を連れて、自分たちの国を後にしました。今で言えば難民の生活です。自分の県では保護が受けられず、やむを得ず他の県に引っ越していったあの福島の家族はよく似ていると思います。
 幼子イエス、マリア、ヨセフのような家族は世界中にたくさんいると思うのです。お金もないし力もない、そういう多くの家族と同じ家族の中に救い主は誕生しました。まったく弱く小さな人間の1人として、救い主は世に来られました。本当につらく厳しい現実の中に神の子イエスは生まれてきたのです。

 しかし、マリアとヨセフは喜びに満ちていました。救い主の誕生の知らせを聞いた羊飼いも喜びに満ちあふれました。マリアにとって、この子は天使から告げられた神の約束が実現した幼子でした。ヨセフにとってもそうでした。そして羊飼いたちにとっても。彼らも天使のお告げを受けて、飼い葉桶の幼子を探しに行き、実際その通りの幼子を見つけるのです。現実の貧しさや苦しみがなくなるわけではない。しかし、神様はこのわたしたちとともにいてくださる。この幼子こそ、「神が共にいてくださるしるし」なのです。どんなに暗く、悲惨で、苦しみに満ちた現実であっても神は決してわたしたちを見捨てておかない。近づいてきて、わたしたちとともにいてくださる、そのしるしがこの飼い葉桶の中の幼子なのです。
 わたしたちにもそう見えますか?この場面だけで、そうだと言われても分からないという方がいるかもしれません。それはもっともです。実は、この幼子が「神が共にいてくださることのしるし」だ、ということは、本当はイエス・キリストの生涯全体をとおして示されたことだったのです。
 大人になったイエスは、病気の人や貧しい人、差別されている人々に近づき、その人々の苦しみを共にになうことによって、人々に神のいつくしみを伝えました。最後は十字架にはりつけになるところまで、苦しむすべての人とその苦しみを共にされました。その生涯全体を見て、本当にイエスという方が、「神が共におられるということを表すしるし」だという確信が生まれたのです。そして、だからこそ、この方の誕生の場面にも同じメッセージを見ているのです。

 キリスト教というのは不思議な宗教です。イエス・キリストが大人になって、病気をいやしたり、奇跡を行なったり、すばらしい説教をしたということを、聖書は伝えています。でもキリスト教の中心にあるのはそんな力強いイエスの姿ではありません。飼い葉桶に寝ている幼子という最も弱く貧しい姿の中に神様の最高の救いのしるしを見る。生涯の最後、十字架の木に釘付けになって、ただ苦しむだけのまったく無力な姿の中に、神様の最高の救いを見る。そういう宗教です。
 それは世界中のすべての人・・・戦争で殺されていく子どもたち、テロの犠牲者、病気の人、重い障がいを抱えて生きる人、日々の食べ物や住む家にこと欠く人、国を追われた難民、アルコールや薬物依存の人、暴力におびえている人、家庭が壊れてしまった人、孤独な人。どんな人であれ、「神はあなたとともにいてくださる」そのメッセージを伝える宗教なのです。そして、このすべての出発点がこの夜の出来事です。飼い葉桶の幼子イエスなんです。

 「神はわたしたちと共にいてくださいます」そのことを心からお祝いしましょう。メリー・クリスマス!

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