毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

灰の水曜日 説教メモ

メモだけでも載せていこうか、せめて四旬節の間・・・と思っています。

●2013.02.13灰の水曜日 説教メモ(福音:マタイ6:1-6, 16-18)

 今日から四旬節が始まります。四旬節は伝統的に、回心の季節として大切にされてきました。そして今日の福音は、回心の業として重んじられてきた「祈り、節制、愛の行い」についてのイエスの説教です。現代の教会は「祈り、節制、愛の行い」と言っていますが、福音書の言葉では「施し、祈り、断食」ですね。イエスはこの「施し、祈り、断食」にせっせと励みなさいと言っているでしょうか。そうではありません。むしろ、「施しをするとき、わたしたちの心がどこを向いているか」、「祈るとき、わたしたちの心がどこをむいているか」を問いかけています。施しをするのは、最低限、生活に必要なものにも事欠いている人に心を向けるということのはずじゃないか。人に見せたり、自己満足のために施しをするのは、まったくおかしなことではないか。イエスはそう問いかけています。祈るのは神に心を向けることではないか。それなのに、祈っている姿を人に見せびらかそうとしているなら、それはまったくおかしなことではないか、そう問いかけるのです。
 断食はどうでしょうか。今日は特別に断食する日。今も大斎・小斎と言って、この灰の水曜日と聖金曜日だけは全世界のカトリック教会で断食が呼びかけられています。断食とは何のためにすることでしょうか。それは決して我慢大会のようなものではありません。自分がどれだけ断食できるかを自慢するためのものではないのです。
 昔、ある本でイスラム教の断食について書かれている言葉を読んで感動したことがあります。さすが「ラマダン」という断食を実践している宗教だけのことはあると思いました。確かこのような言葉でした。
 「ムスリムが断食するのは、食を断つこと自体に意味があるのではない。食物なしに生きることのできない自分を見つめ、この自分を生かしてくださる神の愛を思うこと。また必要な食べ物にも事欠く兄弟のことを思うためである」
 実に見事な定義だと思いました。断食している人の心が向かうのは、神に対して、そして貧しい兄弟姉妹に対してであるはず。その断食さえ、人に見せびらかし、自分を誇る道具にしてしまう。イエスはそういう態度を厳しく批判しています。問われているのはそういうことなんですね。
 四旬節を迎えて、わたしたちの心がどこを向いているか?
 ミサにあずかり、灰の式で頭に灰を受け、黙想会に参加して、ゆるしの秘跡を受け、愛の献金をし、祈り・節制に励んで、じゃあ、本当に神に心を向けているのか、助けを必要としている兄弟姉妹に心を向けているのか。
 心から回心する恵みを願いながら、灰の式を行いましょう。

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