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カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

イエズス会助祭叙階式の説教

写真1

2013.03.02麹町聖イグナチオ教会マリア聖堂にて
受階者:ボニー・ジェームス

第一朗読 二コリント4章5節〜10節
福音朗読 ヨハネ15章9節〜17節

ホミリア
 ボニー・ジェームスさんの助祭叙階式にあたって、改めて助祭という教会の奉仕職の意味を思い起こしてみたいと思います。
 助祭の務めは簡単に言えば2つのこと、弱く貧しい人々への奉仕とみ言葉への奉仕です。使徒言行録6章に、教会が発展していく中で、使徒たちを助けるために選ばれた7人の話があります。このステファノたち7人が最初の「助祭diakonos」だと言われています。その箇所によれば、使徒たちが「祈りとみ言葉の奉仕」に専念できるようにするため、貧しい人のことを心にかけ、その人々に食物を分配する役割を担うのが助祭の使命でした。しかし、その後の箇所を読むと、実際のステファノ、フィリポという助祭たちの働きは、むしろ「み言葉の奉仕」のほうが目立っています。最初の殉教者ステファノはいのちを賭けてキリストを証言しました。フィリポはサマリア人や異邦人に大胆に福音を告げました。人々への奉仕とみ言葉への奉仕、この2つの働きはずっと大切にされていて、今でも典礼の中で表現されています。つまり、ミサの中で助祭には、福音の朗読や説教という役割が与えられ、また、主の食卓を準備し、聖体のパンとぶどう酒を信者に分け与える役割も与えられています。
 この2つの役割は密接に結びついています。どんな立派な言葉を語ろうと、それがその人の生き方に結びついていなければむなしいでしょう。と同時に、わたしたちの愛と奉仕は神の愛を伝えるためなのです。ボニーさんが病人を見舞い、貧しい人を助けるのは、ボニーさんという人がどんなに素晴らしい人かを伝えるためではなく、神さまがどんなにその人を愛してくださっているかを伝えるためなのです。第一朗読の、コリントの教会への第二の手紙にこういう言葉がありました。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」本当にそうですね。言葉で伝えるだけでなく、人との関わりのすべてをとおして、わたしたちはキリストを伝えようとするのです。これは本当にたいせつなことです。ボニーさんは弱っている誰か、傷ついている誰かをずっと支え続けることはできません。人をずっとずっと支え続けることのできる方は、神しかいない、復活していつも共にいてくださるキリストしかいません。わたしたちの使命はわたしたちが出会う人が神と、キリストと出会うための道具となることです。そのためにわたしたちの言葉と生き方があるのです。そのために今日、教会はあなたに助祭という公の奉仕者としての職務を与えるのです。
 福音は「互いに愛し合いなさい」という有名な箇所でした。その中で、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」という言葉がありました。ボニーさん、この言葉をほんとうに自分に向けてイエスが語ってくださる言葉として受け取ってください。「わたしは父から聞いたことをすべてあなたがたに告げた。わたしは自分のいのちのすべてをかけてあなたがたを愛し抜く。だからもうあなたがたはしもべではなく、わたしの友なのだ。」そう語りかけるイエスの声を聞いてください。イエスは立派な強い弟子たちに向かってそう言われたのではありません。自分を見捨てて逃げて行ってしまう、そんな弱い弟子たちに向かってそう語られたのです。わたしたちも弱さを抱えた人間です。しかし、そのわたしたちがほんとうに友としてのイエスの言葉を受け取り、友としてのイエスの愛を感じるならば、わたしたちは弱い人、貧しい人、病気の人の友になることができるでしょう。
 ボニーさんは半年後には司祭になるでしょう。でも助祭をやめて司祭になるのではありません。助祭は一生助祭であることを忘れないでください。大切なのはキリストの愛を受け、キリストの愛を生き、キリストの愛を伝えることだけです。生涯をかけてそのことを追い求めて行けますように。助祭叙階式にあたり、わたしも含め、ここにいる司祭団皆、助祭職における仲間として、決意を新たにしたいと思います。


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