毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第6主日



東京から来た10人のお客さまと一緒に、鮫川村の知足庵に泊まり、浜通りの姿を見ていただきました。
知足庵の金澤さん、楢葉のシスター藤原、希望の牧場の吉沢さんなどのお話を聞くことができ、
盛りだくさんの現地案内となりました。
そして日曜日はもちろん原町教会のミサです!
(写真は知足庵のハナカイドウと日本の青空!)

●復活節第6主日・世界広報の日
聖書箇所:使徒言行録10・25-26, 34-35, 44-48/一ヨハネ4・7-10/ヨハネ15・9-17
     2018/5/6カトリック原町教会
ホミリア
 「『互いに愛し合いなさい』って本当にいい言葉ですね」
 とある高齢の紳士はおっしゃいました。紳士と呼ぶにふさわしい、長身で白髪、話し方は落ち着いていて、身のこなしも洗練された方でした。教会の聖書講座に通うようになって、とうとう洗礼を受けることになり、ゆっくり時間をとってその方とお話をしました。洗礼名をどうするかという話になって、彼は洗礼名をヨハネにしたいと言いました。
 「ヨハネの福音書の中にある、『互いに愛し合いなさい』という言葉が本当にいい言葉だと感じるからです。」
 この方との出会いは、ずいぶん昔のことですが、強く印象に残っています。

 この方は、ある大手精密機械メーカーでずっと働いてきた方でした。奥さんとの間に一人娘がいらっしゃいましたが、その娘は若い時に修道院に入り、シスターになりました。奥様も洗礼を受けました。その後、そのシスターは心の病気になり、年老いた両親のいる家に戻ってきていました。妻もまたずっと体調を悪くしていました。3人で教会のミサに通って来ることもなかなかたいへんのようでした。奥さんと娘の具合の悪い時も、彼は毎週一人で教会に通っていました。わたしはそのご家族の事情を聞いていたので、どうしてこの男性は教会に来るのだろうと不思議に思いました。キリスト教との出会いは彼の家族に幸せをもたらした、とは決して言えないと感じたからです。むしろひどいことばかり、キリスト教を憎んでも当然なのではないか、と思いました。でも彼はずっと教会に通ってきて、とうとう洗礼を受けたいと申し出られました。
 そのときにその方のおっしゃった言葉が最初に紹介した「互いに愛し合いなさい」という箇所についての言葉です。その方は人生の最後に、妻と娘のために自分にできる一番良いことは何かを考えて、その結論が洗礼を受けることであり、それが彼にとって「互いに愛し合うこと」なのだと強く感じさせられました。
 家族のことですから、長い年月の間にお互いの関係の中でどんなことがあったか、わたしはすべてを知っているわけではありません。しかし、3人の姿を見ていて、今、なんとか互いを大切にして生きたいと願っていることを強く感じました。その方の洗礼式はこのご家族にとって、最高の幸せをもたらすものとなりました。

 家族でも親しい人の間でも同じでしょう。
 「この人のためにわたしにできることは何か。」
 そう考えたいと思う相手がいてくれることはどんなに素晴らしいことでしょうか。
 そう自分に対して思ってくれる人がいることはどんなに素晴らしいことでしょうか。

 先日、『ブランカとギター弾き』という映画を見ました。今年の日本カトリック映画賞の受賞作で、わたしは今週末に東京で行われる授賞式であいさつをしなければならないので、どうしても見ておかなければならなかったのです。長谷井宏紀という日本人の監督がとったイタリア映画ですが、舞台はフィリピンでした。親に捨てられたブランカという少女は、スリや泥棒をして誰にも頼らずたくましく生きていました。その少女が盲目のギター弾きの老人と出会うという物語です。彼は街角でギターを弾いていますが、目が見えないので、それこそ貧しい子どもたちにお金を取られたりしていいました。でもその子どもたちのことをゆるすのです。そんなブランカとギター弾きの間に心の交流が生まれます。自分が生き延びるために自分の力で必死でやってきたブランカは、その自分のことを親身に考えてくれる一人の老人と出会い、自分も彼のために何ができるかを真剣に考えるようになります。そうすると人生が変わって来るのですね。すてきな映画でした。
 
 「互いに愛し合いなさい」これが今日、いただいたイエスの言葉です。
 幸せの鍵はここにあります。
 何を持っているか、何ができるか、どれだけ健康で、どれだけ自分の思いどおりの人生を送れるか、そんなことではなく、「この人のために自分のできる一番いいことをしたい」と思うこと、「この人は自分のために一番良いことをしてくれようとしている」と感じること、それが最高の幸せです。
 この幸せの道をイエスはわたしたちに示してくださいました。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」
 イエスがわたしたちのために一番よいことをしてくださった。そのことをわたしたちは聖書をとおして、日々の生活の振り返りの中で、そして毎回のミサの中で味わいます。イエスがわたしたちのために、できうる最良のことをしてくださった、そう信じるから、わたしたちはお互いのために、本当に何ができるかを考え続けるのです。

 今日、わたしたちはこの「互いに愛し合う」という大きなテーマを新たな思いでいただきたいと思います。「互いに愛し合えない」という痛みをいやというほど感じることもあります。でも「互いに愛し合う」ことの大切さ、素晴らしさを今日、感じたいのです。どんな困難があったとしても、それでも「互いに愛し合う」世界にわたしたちを招いてくださっている神に・キリストに感謝して、日々を生きることができますよう、心を合わせて祈りましょう。

 

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復活節第5主日





南相馬農地再生協議会主催の「南相馬菜の花花見会2018春」というイベントに参加してきました。
塩害に強い菜の花、そこからとった菜種油にはセシウムが入りません(セシウムは水溶性のため)。
そこで南相馬市原町区の多くの畑で菜の花が栽培されています。
今回の目玉は、新たに作られた「搾油所」のお披露目。
(下の写真、向こう側が搾油機で、こちら側が絞った油を漉しているところです)
これで菜の花の栽培から、菜種油の製造、瓶詰めまで、すべて南相馬で行うことができるようになりました。

●復活節第5主日
 聖書箇所:使徒言行録9・26-31/一ヨハネ3・18-24/ヨハネ15・1-8
    カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日の福音を読んでいるうちに、昔、読んだ八木重吉の詩を思い出しました。その詩に出会ったのは、神学生のころのことだったと思います。
 「きりすと われにありとおもうはやすいが
 われみずから きりすとにありと ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ
 きりすとが わたしをだいてくれる わたしのあしもとに わたしが ある」
 八木重吉は1898年に東京・町田で生まれ、1927年、結核のため、わずか29歳で世を去った詩人です。短い年月にたくさんの詩を残しました。その多くはとても短い詩です。キリスト者としての信仰を、詩のかたちで表現した人として、戦後になってからよく知られるようになりました。彼は英語教師として千葉県の東葛飾中学で教鞭を取りました。この学校は戦後、東葛飾高等学校となりましたが、実はわたしが卒業した高校でもあります。高校時代は八木重吉のことを知りませんでしたが、わたしの卒業後、八木重吉の詩碑が学校に建ちました。そんな縁もあって、彼の詩を身近に感じるようになりました。

 ただこの詩を若いころに読んだ時、実はピンと来なかったのです。
 「きりすと われにありとおもうはやすい」そうでしょうか?
 「われみずから きりすとにありと ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ」そうなのでしょうか?
 そのころのわたしは逆じゃないかと思ったのです。わたしはキリストを信じている、と思えば、「われキリストにあり」と思うのは当たり前ではないか、逆に、キリストを信じていると言いながら、なかなか「キリストわれにあり」とは思えないこともあるのではないか。そんな風に考えて、とてもとても八木重吉の心境にはたどり着けないでいました。

 ではなぜ、今日の福音を読んだときにこの詩を思い出したかです。
 「ぶどうの枝がぶどうの木につながっている」
 そう訳されていますが、これはもともとぶどうの枝とぶどうの幹がつながっているのではなく、枝はぶどうの木全体の中にとどまっている、という表現になっています。
 そして「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」という箇所は「わたしのうちにとどまりなさい。わたしもあなたのうちにとどまる」というのが直訳です。ぶどうの枝がぶどうの木全体にとどまる、というのは分かりやすいですが、ぶどうの木全体がぶどうの枝にとどまる、というイメージは湧きにくいですね。DNAとかで考えれば、ぶどうの枝の先にまでぶどうのDNAがあると言えるかもしれませんが、そんな話なのでしょうか。いやむしろ、わたしたちの中に愛そのものであるイエスがとどまる、そして、わたしたちが愛そのものであるイエスにとどまる、というイメージなのでしょうか。「わたしはあなたがたのうちにいる」それはわたしたちの中にキリストの愛が確かにあるということ。「あなたがたがわたしのうちにいる」とは、キリストの愛の中にわたしたちが生きるものとなる、ということ。

 だとしたら、「わたしたちがキリストのうちにいる」、というのは、ただ単にイエスを神の子・救い主だと頭で信じているとか、洗礼を受けているとか、教会に通っているとかではなく、やはり本当にわたしたちがキリストの愛に結ばれて生きるようになる、ということではないか。八木重吉が「われみずから きりすとにありと ほのかにてもかんずるまでのとおかりしみちよ」と言ったのはそのことではないか。
 この詩の最後の言葉も分かりにくいですが、「きりすとが わたしをだいてくれる わたしのあしもとに わたしが ある」とあります。
 「きりすとが わたしをだいてくれる」これは、キリストはわたしを確かにいとおしんでくださる、愛してくださっている、という意味でしょう。「わたしのあしもとに わたしが ある」とは何でしょう? わたしはこれだけのもの、背伸びしても、上べを取り繕っても、わたしはわたしでしかない。どうしようもなく足りない自分がそこにはいます。でもだからこそ、「ほのかにてもかんずる」という言葉がとても素敵なのです。全然、キリストの愛に近づいていない自分を感じながら、でも「ほのかにても」そうなれたらいい。

 こんなふうに感じるのは、自分が今、浜通りにいるからだと思います。
 相馬、鹿島、原町、小高、浪江。この浜通りの原発の北側の地域に住んでいて、さまざまな人と出会います。ほとんどの人は言わば「キリストを知らない人」です。その中に本当に素晴らしい仏教者もいらっしゃいますし、無宗教のような方もいらっしゃいます。ここで、わたしたちはキリストを信じつつ、震災と原発事故の影響を受けているすべての人と一緒に歩ませていただこうとしています。だからこそ、「キリストにつながっているとは?」「キリストのうちにいるとは?」と本当に日々、問いかけながら、歩まなければならないのです。それは震災前からこの地域に住んでいるキリスト者も、震災後、支援のためにここにきたキリスト者も同じでしょう。
 この地でわたしたちが「われみずから きりすとにあり」と少しでも感じる者となることができますように、ミサをとおして祈りましょう。


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復活節第4主日



カリタス南相馬のスタッフが南相馬市小高区の方からたけのこをいただきました。
念のため、放射線量を測ってもらい、問題なしということでしたので、
木の芽和えを作ってみました。

日曜日は午前中に原町教会で聖書講座とミサ、午後は宮城県・大河原教会でもミサをささげました。
やっぱりこれがわたしのvocationなのでしょう。

●復活節第4主日・世界召命祈願の日
 聖書箇所:使徒言行録4・8-12/一ヨハネ3・1-2/ヨハネ10・11-18
    原町教会・大河原教会
 ホミリア
 世界召命祈願の日。世界中で召命のために祈る日。昔から復活節第4主日にはヨハネ10章の「よい羊飼い」の箇所が読まれ、伝統的に「良き牧者」の主日と呼ばれていました。そこから、教会の中に「良き牧者」である司祭が多く生まれるように祈る日、ということになりました。「召命」は英語ではvocation、「呼ぶ」という意味のラテン語から来ていて、本来は、神の呼びかけに応える道の意味です。そうであるなら司祭職だけではなく、修道生活も召命だし、結婚生活も召命だと考えられるようになりました。それもやはり召命、神の呼びかけに応える道だと。さらに言えば、結婚しなくても、神の呼びかけに応える道もあります。人それぞれさまざまですが、本当に一人一人が神の呼びかけに応える人生を歩むことができるように祈る。「召命のために祈る」ということですが、今ではとても広いテーマになっています。

 今日の福音は羊飼いであるイエスとわたしたちの深い交わりを表す箇所です。良い羊飼いであるイエスは、羊であるわたしたちのためにいのちを差し出されました。羊飼いが羊一匹一匹をよく知っていて羊を導くように、羊も羊飼いを知っていて、羊飼いの声に聞き従い、羊飼いについていく。これが根本的なvocationのイメージです。
 イエスの声を聞き、イエスについていく、これが根本的な呼びかけ。それは「神の子」としての召命と言ってもいいでしょう。第二朗読でわたしたちは「神の子とされた」と言われています。すべての人がそこに招かれている。わたしたちは神の子として、神が愛であるように、愛するものになっていきたい。イエスが徹底的に愛を生きたように、わたしたちも愛に生きるものになりたい。根本的な、わたしたちみんなの召命です。もちろんわたしたちは皆、十分に、完全にそれに応えることはできていません。でも、最終的に「御子をありのままに見て、御子に似たものとなる」。そう希望し、信頼しながら、神の子としての歩みをしていくのです。
 このような普遍的なキリスト者の召命ということは大切です。

 でも召命はもっと具体的な人生の決断でもあります。日々、どんな働きをしていくのか、どこで生活していくのか、この人生を誰とともに生きていくのか、それは具体的な決断です。自分が決断するよりも前に、神はすべての人のために、それぞれの人にふさわしい召命の道を備えてくださっている、それぞれの人に固有の呼びかけをしてくださっている、これもわたしたちの大切な確信です。それを見つけることが大切なのです。
 教皇は毎年、この日に合わせてメッセージを発表しますが、今年のメッセージの中でこういうことを言っています。

 「福音の喜びは、神との出会いと兄弟姉妹との出会いに向けてわたしたちの心を開きます。しかしその喜びは、ぐずぐずと怠けているわたしたちを待ってはくれません。もっとふさわしいときを待っているのだと言い訳をしながら、窓から見ているだけでは、福音の喜びは訪れません。危険をいとわずに今日、選択しなければ、福音の喜びはわたしたちのもとで実現しません。今日こそ召命のときです。キリスト者の使命は今現在のためのものです。そしてわたしたち一人ひとりは――結婚して信徒として生きるにしても、叙階されて聖職者として生きるにしても、また特別な奉献生活を送るにしても――、今ここで主のあかし人となるよう求められています。」

 今、神の呼びかけをしっかり聞いて、今、答えなければ、というのです。結構厳しいですね。毎日の忙しさ、目の前のいろいろな課題、あるいは身近なところにある楽しみ。そういうものに振り回されていると、本当に自分の一回限りの人生を何にかけるか、ということを真剣にみつめるチャンスがないまま、時が過ぎて行ってしまう。現代ではこういうことが起こりやすいと教皇は指摘しています。
 最近思うのですが、20代には20代の、40代には40代の、60代には60代の、80代には80代の召命があるのではないでしょうか。わたしは60代ですが、20代でこの道を選び、40代のころは夢中で働き、60代になって自分の限界もいろいろ見えて来て、その中でどのようにこの召命の道を深めていくのか、本当にもう一度、深く神の呼びかけを受け取らないといけない、と感じています。たぶん80代まで生きれば、また別の呼びかけを聞く必要も出てくるのでしょう。
 
 召命の道は喜びの道です。自分の人生の歩みを、「これがわたしなりに精一杯、神の呼びかけに応える道だ」と感じられたら、その人生は本当に輝きます。神はそういう喜びにわたしたちを招いてくれているのです。
 あらゆる世代のわたしたち一人一人が、聖書と祈りの中で神の呼びかけを聞き、それを本当によく聞き分け、日々の生活の中で、それに応えるものとなりますように。心から祈ってこのミサをささげたいと思います。


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復活節第3主日



飯舘村復興の3000本桜というところに行ってきました。
南相馬の桜はもう終わりですが、標高500メートルの飯舘村では今が満開でした。
個人の方が震災前から植え続け、今も植え続けているそうです。

3000本以上の桜は見事ですが、とてもカメラには収まりません!

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録3・13-15, 17-19/一ヨハネ2・1-5a/ルカ24・35-48
2018.4.15カトリック原町教会
 ホミリア
 イエスの弟子たちは、イエスが逮捕された時、皆、イエスを見捨てて逃げ去りました。そういう意味で、皆、弟子としては失格者でした。しかし、復活したイエスは再び、その弟子たちをご自分の弟子として受け入れ、派遣されたのです。この派遣の言葉は、マタイ福音書ではこういう言葉です。
 「28・19あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
 マルコ福音書の末尾に載せられているイエスの派遣は、
 「16・15全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
 それに対するルカ福音書の言葉が今日の箇所です。
 「24・46次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。」

 宣べ伝えられるのは「罪のゆるしを得させる悔い改め」だと言われます。悔い改めもゆるしも、ルカ福音書では単なる道徳的な意味の言葉ではありません。「悔い改め」とは「主に立ち返る」ことです。「ゆるし」と訳されている言葉の元のギリシア語は「アフェシス」です。この言葉は、ルカ4章、ナザレの会堂でのイエスの宣教開始の場面にも出てきます。そこでイエスはイザヤ預言書(イザヤ61・1-2aなど)を朗読しました。
 4・18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19主の恵みの年を告げるためである。」
 イエスはこの箇所を読んでから、こう宣言されました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。
 ここにイエスの活動とメッセージのエッセンスがあります。この箇所で「解放」、「自由にし」と訳されている言葉が「アフェシス」なのです。苦しむすべての人に福音が告げられる。神と人との間を隔てているものが取り払われ、人と人との間を隔てている暴力や不正が取り除かれるというイメージでしょう。

 ルカの派遣命令でもう一つ大切なのは、「宣べ伝える」は人間がすることではない、という点です。「宣べ伝えられる」の主語は、使徒たちではありません。使徒たちは、「これらのことの証人となる」と言われていて、これをなさるのは神ご自身なのです。
 証人とは何でしょう? 傍観者的に見ていて、ただ証言する人の意味でしょうか? そうではない。神のなさることに信頼しながら、そこに協力していくことが証人となること。

 一番良いイメージは、「わたしをお使いください」という歌ではないか、と思いました。マザーテレサの祈りと言われていますが、元の英語版はうまく探せませんでした。日本語ではこういう歌詞になっています。
 「主よ 今日1日 貧しい人や 病んでいる人々を助けるために  
 わたしの手をお望みでしたら 今日わたしのこの手をお使い下さい
 主よ 今日1日 友を求める小さな人々を訪れるために
 わたしの足をお望みでしたら 今日わたしのこの足をお使い下さい
 主よ 今日1日 優しい言葉に飢えている人々と語り合うために
 わたしの声をお望みでしたら 今日わたしのこの声をお使い下さい
 主よ 今日1日 人というだけで どんな人々も 愛するために
 わたしの心をお望みでしたら 今日わたしのこの心をお使い下さい」

 「わたしが助けることができますように」というのではないのです。「主が貧しい人を助けてくださる」「主が小さな人々を訪問してくださる」「主が愛の言葉に飢えている人と語り合ってくださる」「主がすべての人を愛してくださる」あくまでも主体は「主ご自身」なのです。そう信頼しながら、わたしの手、わたしの足、わたしの声、わたしの心はその主のみわざのための道具として使ってください、と祈ります。

 昨日、福島市の松木町教会で、仮設住宅を出た浪江町の人たちの集まりがありました。そこで90歳の女性が民謡の替え歌を披露してくださいました。自分で詩を作って、暗記して歌ってくれたのです。その詩の中で、仮設住宅のあった宮代という場所を「第二のふるさと」と呼んでいました。原発事故から6年間一緒に過ごした仮設住宅です。もうほとんどの人はそこを出て、新しい家に移っています。その高齢女性も今は南相馬市に住んでいます。ずっと住んでいた仮設の建物もそろそろ取り壊されるという話です。でもその人は仮設を「第二のふるさと」というのです。逆に言えば、仮設を出た今、どれほど孤独を感じているか、ということだと思いました。
 その人々のために何ができるか、なかなか難しい課題です。でも、わたしたちに何ができるか、何をすべきか、ではなく、「主は何をなさろうとしているか、そして、そこにわたしはどんな協力ができるか」そう考えてみるのも大切ではないかと思いました。これは別にカリタス南相馬のスタッフやボランティアだけの話ではありません。
 「神と人、人と人とを隔てているものからの解放」その神のみわざ、復活したキリストのみわざを信じながら、そのために少しでも協力できるものとなる恵みを祈り求めたいと思います。


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復活節第2主日のミサ



2月26日に浪江町でオープンした「サッポロラーメン たき」に行ってきました。
国道6号線、高瀬交差点の近くです。
昼どきだったので、ほぼ満席。塩ラーメンをいただきましたが、おいしかったです。

浪江町の海側が避難指示解除になって1年。
なかなか厳しい状況ですが、徐々に住民は戻ってき始めたようです。
お店もぼちぼち。

●復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
 聖書箇所:使徒言行録4・32-35/一ヨハネ5・1-6/ヨハネ20・19-31
    2018.4.8カトリック原町教会
 ホミリア
 昔ある小教区で働いていたときのこと。近くの大学に通っていた若い男性が教会に通ってくるようになりました。信者ではありませんでした。平日の夜の教会の聖書のクラスに熱心に通ってくるのですが、発言すれば、毒のあることばかり。わざと人に嫌われるようなことばかりを言うのです。彼は自分のことを「サタン」と呼んでいました。
 「俺はこんなに悪いやつだ。俺なんか誰にも好かれない。俺なんかどうせ救われない」とも言っていました。
 わたしも若かったので、彼にどう接していいのか、よく分かりませんでした。教会に来て、こんなに悪態をついているぐらいなら、わざわざ教会に来なくてもいいのではないか。でも口は悪いけれど、悪い人間には見えなくて、周りにいた青年たちも、まあなんとなく自然に彼を受け入れていました。

 1年ぐらいたった時でしょうか。ある日、突然、彼は自分のこれまでの人生を語り始めました。幼い頃から家庭で受けて来た苦しみ。家でも学校でも、ずっと自分の居場所がなく、どれほど苦しんで来たか。ずっと人間関係がうまく行かなかったことなどなど。
 それは閉ざされていた心が開かれた瞬間でした。
 そのときに分かったのです。彼が必死で心を閉ざしていたのは自分を守るためだったのだと。自分を開いて、人と関われば必ず自分が傷つくと知っていて、ヤマアラシかハリネズミのように棘を立てて、必死で自分を守っていたのだと。
 でも彼は心を開きました。それは1年の間に、教会で聖書を読み、他の青年たちと関わり、イエスの愛が彼の心に染みていったからです。ここなら大丈夫、自分の弱さを出しても受け入れられる、そう感じたからでしょう。閉ざされた心が開かれたとき。本当に感動しました。この瞬間のために自分は司祭になったのだと思うほどの感動でした。
 それからわたしは転勤して、彼とずっと音信不通になってしまいましたが、何年か後に、偶然、彼と再会しました。まったく違う教会のクリスマスの夜のミサでした。生活や仕事は必ずしもうまく行ってはいないようでした。でも以前よりも明るくなっていて、ずっと教会とつながり続けてくれているのがうれしかったです。

 今日の福音を読むとわたしはいつも彼のことを思い出します。
 イエスの弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸を硬く閉ざしていました。先生が捕まり、十字架にかかって死んでしまった。外にはイエスの仲間を探して、捕まえようとしている人々がいるかもしれない。自分たちもどんな目にあうかわからない。恐怖でいっぱいなのです。「鍵をかけていた」それは弟子たちの心の状態をも表しているのでしょう。そこにイエスが来られます。彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言います。弟子たちの心は喜びと平和に満たされていきます。「あなたがたに平和があるように」。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。外は危険でいっぱいです。でも「イエスがともにいてくださる。だから何も恐れることはない」これがキリストの平和です。心がこのキリストの平和に満たされた時、弟子たちは鍵を内側から開いて、外に出て行くことができるようになったのです。
 心の扉は外からこじ開けることはできません。内側からしか開かない。そして本当に深い平和を心に感じなければ内側から扉をひらくことはできないのです。

 八日目にイエスに出会ったトマスも心を閉ざしていました。「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」なぜトマスはその場にいなかったのでしょうか。トマスはヨハネ11章で、イエスが危険に満ちたユダヤに行くと弟子たちに話した時、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と勇敢なことを言った弟子でした。しかし、彼は最後までイエスについて行くことはできなかったし、仲間の弟子たちもそうでした。そんな自分にも仲間にも失望し、こんな連中と一緒にいても意味がないと感じたのでしょうか。そしてイエスの死を知って絶望し、心を閉ざしていました。彼のもとに「わたしたちは主を見た」という他の弟子たちの話が届きました。でも彼は信じることができない。心を閉ざし続けます。
 信じることはできないけれど、その後、こう書いてあります。
 「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」
 「もしかしたら本当かもしれない」そこに賭けたのですね。そしてイエスはそのトマスにも現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われます。トマスもこのキリストの平和に満たされて行くのです。そのとき、本当に心を開くことができました。

 「キリストがともにいてくださる。だから何も恐れることはない」このキリストの平和の体験は、個人の体験だけでなく、教会の体験でもあります。教会もほんとうに「キリストがともにいてくださる。だから何も恐れることがない」これが原体験ですし、そこからいつも出発します。
 司教はミサのはじめに「平和が皆さんとともに」と言うことになっています。普通の司祭は「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」とか言いますね。普通の司祭の言葉とちょっと違うんですが、そんな違いを強調する必要はないし、なんとなく最初は恥ずかしかったのです。これは復活したイエスのあいさつそのままです。「あなたがたに平和があるように」司教は特別に、イエスに代わってそう言うのです。みんながキリストからそう言われていると受け取ってくださるとありがたいです。わたしたちキリスト者のミサは復活したイエスがともにいてくださる。そこから始まります。
 ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」という言葉があります。これも今日の福音のイメージで受け取りたい。内側から鍵をかけて、必死で自分たちを守ろうとしているところに、イエスは来られ、「あなたがたに平和」とおっしゃり、「わたしはあなたがたを遣わす」とおっしゃってくださる。今日もこのキリストの平和に満たされて、キリストの平和を伝えるために、ここから出発していきたいと思います。


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