毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

復活節第4主日のミサ



菜の花から採れる菜種油に放射能は含まれず、食用にできるとのことで、
南相馬市原町区のあちこちに菜の花畑があります。
今、まさに花盛りです。

相馬農業高校の高校生も参加して作られた南相馬の菜種油は「油菜ちゃん」という名で商品化されています。

●復活節第4主日、世界召命祈願の日
 聖書箇所:使徒言行録2・14a, 36-41/一ペトロ2・20b-25/ヨハネ10・1-10
 カトリック原町教会にて

 ホミリア
 皆さん、四旬節第四主日に読まれた、生まれつき目の見えない人のいやしの物語を覚えておられるでしょうか。ヨハネ福音書9章で、今日の福音ヨハネ10章の直前にあります。
 物語の発端は、イエスと弟子たちの一行が通りがかりに生まれつき目の見えない人を見かけたことでした。彼が生まれつき目の見えない人だということはどうして分かったのでしょうか。イエスが立ち止まり、その人に声をかけ、彼が話したからでしょう。イエスは最初から彼に関心を持っています。
 弟子たちはこのことが分かるとイエスに問いかけました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」弟子たちはこの視覚障害者を心配してそう言ったのでしょうか。そうではなく単なる知的興味だったのではないでしょうか。当時、病気や障害、なんらかの不幸は罪の結果である、という考えが一般的でした。普通なら本人が罪をおかすと本人に不幸がふりかかる。しかし、この人の場合は、生まれつきだからどうなのか。本人ではなく両親の罪の結果か。彼らは理解できない問題について、イエスに教えてもらい、イエスの答えを聞いて納得しようとしたのです。それは自分たちが納得するためであって、この目の前の人を助けるためではありませんでした。「結局、何らかの罪の結果だから仕方ないよね」これが弟子たちの見方であり、態度です。

 イエスは弟子たちに答えてこう言います。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエスは病気や障害が罪の結果であるという考えそのものを否定します。ではなぜこの人がこんな不幸を背負っているのか、実はイエスは答えていません。そうではなくイエスはその人に関わろうとするのです。「神の業がこの人に現れるため」というのは、この人の不幸の原因や目的を語っているのではなく、神がこの人に対して何かなさろうとしておられるという確信を表す言葉です。神は今この人に対して何をなさろうとしているか、そしてその中でわたしには何ができるか。イエスはそこだけを見つめ、そして彼に関わっていくのです。具体的には、イエスは彼の目をいやすことになりました。
 それは安息日のことでした。安息日は労働が禁じられた日で、イエスが安息日にこのようなことをしたのはイエスにとって非常に不利になることでした。目をいやされた人はファリサイ派の人々から取り調べを受けます。ファリサイ派の人々にとって、盲人だった人は、「全く罪の中に生まれた」(9・34)人間で、なんの価値もない人間でした。ファリサイ派の人々は、「安息日の掟を破る人間は神から来た人ではありえない」という大原則からイエスを理解しようとします。そして、この視覚障害者のことも、イエスのことも結局、認めようとしないのです。

 ここに決定的な違いがあります。イエスの弟子たちは、人の不幸をみて、なんとか納得できる説明を見つけようとして、それでその人の横を素通りしようとしました。当時のファリサイ派のような宗教熱心な人々は、律法の基準で人をはかり、視覚障害をもった人に罪びとのレッテルを貼り、安息日の禁を犯して人を助けたイエスにも罪びとのレッテルを貼ろうとしました。そして自分たちこそ正しい人間だという自己満足に浸っていたのです。
 イエスは違いました。イエスは目の前の人の苦しみを決して見過ごされませんでした。イエスにとって、相手が罪びとかどうかは問題でなく、神はこの人を限りなく愛しておられる、そういう人として関わることだけが問題でした。

 この9章の物語が背景にあって、今日のイエスの言葉があるのです。
 「はっきり言っておく」
 わたしは羊飼い。羊飼いは羊を知り、羊は羊飼いを知る。
 わたしは羊の門。わたしという門をとおってこそ本当のいのちが得られる。
 さらに今日の箇所の続きでは、「わたしは良い羊飼いである」(10・11,14)と言われます。そして「良い羊飼いは羊のために命を投げ出す」と言われるのです。
 この方がわたしたちの羊飼いです。この方はわたしたちのために命を差し出されましたが、復活して今も生きておられ、わたしたちを闇から光へと導き続けてくださる方です。

 私自身は若いころ、そういう方としてイエスに出会いました。自分の人生は無意味で、何をやってもむなしい、自分なんかたいしたことない人間、きっと何の役にも立たない。でもそんなこと恥ずかしくて誰にも言えない。学校にも社会にも自分の居場所が見つけられず、どんどん追い詰められていきました。本当に真っ暗闇で、光が見えない状態でした。
 でもイエスはこのわたしを見ていてくれた。かけがえのない神の子として見ていてくれた。わたしを呼んでくれた。そう気づいたとき、わたしは闇から光へと移されました。だからキリスト者をやっていますし、司祭をやっています。
 召命祈願の日である今日、本当にすべての人が良い牧者であるキリストの眼差し、呼びかけ、招きに気づき、それに応える者となることができますように。心から祈りましょう。

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復活節第3主日のミサ



毎度ながらのミサ説教原稿ですが・・・

●復活節第3主日
 聖書箇所:使徒言行録2・14, 22-33/一ペトロ1・17-21/ルカ24・13-35
 2017.4.30カトリック原町教会

 ホミリア
 復活祭から七週間にわたり、キリストの復活をお祝いしています。キリストの復活を祝うということは、2000年前にイエスの墓が開いて、奇跡のようなことが起こったと信じることではありません。イエス・キリストが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださると信じることです。復活のキリストはどのように共にいてくださるのか。きょうのエマオの弟子の物語はそのことについてとても豊かなヒントを与えてくれます。

 まず、聖書の言葉をとおしてイエスはともにいてくださる。
 見知らぬ旅人の姿で弟子たちに近づき、彼らの話を聞いたイエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃり、「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。
 イエスの受難と死も、またそれをとおして受けることになる栄光も、聖書に示された神の救いの計画の中にあったのだということです。そのことを、旧約聖書のみことばをとおしてイエスは示されました。今もそうです。わたしたちは旧約聖書だけでなく、新約聖書、特に福音書を持っていますから、神がイエスを世に遣わしてどれほど人間を愛してくださったかを知ることができます。そして聖書をとおして、神が今もどのように人を愛し続けているかを知ることができます。そのことに気づくためにわたしたちは聖書を読むのです。現実はいい時ばかりではありません。悲惨なこともたくさんあります。でもその中で神はわたしたちを導き続け、最終的に復活のいのちの喜びに導いてくださる。そのことを、聖書をとおして悟らせていただきたいと思います。このエマオの弟子たちはあとで気づきました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」本当に心に深く響くようにみことばを受け取ることができるよう、祈りましょう。

 もう一つこの物語で示されること、それはイエスは「パンを裂くこと」をとおして共にいてくださるということ。
 エマオの弟子たちがこの見知らぬ旅人がイエスだと気づいたのは、その人が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」ときでした。イエスはいつも食事のときにそうしていました。5つのパンを5000人に分けたときもそうでした。イエスは「パンを取り、賛美の祈りを唱え」ることによって、このパンが神から与えられたもの、神がすべての人に必要なものを与え、生かしてくださる方であることを表しました。また「パンを裂いて与える」ことをとおして、この恵みは自分だけで独占すべきものでなく、皆と兄弟姉妹として分かち合って生きるべきものであることを示してくださいました。罪びとを招いて一緒に食事をしたときも、神が誰ひとり除外することなく、すべての人をいつくしむ父であることを示されました。そして最後の晩さんのとき、同じようにパンを裂き「これはわたしの体」と言い、ぶどう酒の杯を取って「わたしの血」と言われました。すべてを与え尽くしたイエスの愛を思い起こし、その愛に結ばれるために、この「パンを裂くこと」を続けるよう弟子たちに命じられました。
 わたしたちキリスト者は毎週集まって「パンを裂くこと」を行います。それは、イエスが復活して、今わたしたちと共にいてくださることを深く味わうためです。

 「みことば」と「パンを裂くこと」を通して、わたしたちはイエスが今もともにいてくださることを深く味わうことができます。
 今日の福音はもう一つのヒントを与えてくれているかもしれません。それは人と人とが「寄り添う」中に復活のイエスはいてくださる、ということです。
 この二人の弟子は失意のどん底にいました。彼らはイエスについてこう言います。「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」もうすべての希望は絶たれてしまった。がっかりして弟子たちの集まりを離れ、エルサレムの都を離れ、自分たちの故郷に向かっていました。でも一人ではなく、なぜか二人一緒でした。互いに寄り添い、悲しみを分かち合う中で彼らは、次第にイエスに気づいていった、と言ってもいいのではないでしょうか。イエスのあの約束は今も無になっていない。イエスの言葉はわたしたちの中に生きている。無意識のうちに彼らはイエスに励まされていたのです。みことばとパンを裂くことで彼らははっきりとそれを意識するようになりました。
 そして彼らはエルサレムにいる他の弟子たちのところに戻って行きます。「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。」復活の喜びは孤立した一人の人間が感じることはむずかしいものです。復活の喜びとは、悲しみやつらさを分かち合い、共に生きようとするときにどこかから湧いてくる希望や喜びであり、その喜びは、さらに多くの人と一緒に分かち合うようになる喜びなのです。わたしたちの日々が、この復活の喜びに満ちたものとなりますように。

 昨日までの日々の中で、今日のみことばと聖体の食卓の中で、そして明日からの、また新たな歩みの中で、本当に主は復活して共にいてくださるということをわたしたちが深く味わうことができますように、このミサの中で祈りましょう。



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復活節第2主日のミサ



先週、相馬市の松川浦に行ってきました。
津波で大きな被害を受けた場所ですが、
相馬港も漁港も整備され、つい先日、松川浦大橋も車で通れるようになったそうです。

写真は早朝散歩のときのものです。
では毎度ですが、ミサの説教をどうぞ。

●復活節第二主日(神のいつくしみの主日)
 聖書箇所:使徒言行録2・42-47/一ペトロ1・3-9/ヨハネ20・19-31
               2017.4.23原町教会
 ホミリア
 今日の福音で、イエスは「見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいます。皆さんはどう思いますか?トマスも他の弟子たちも復活したイエスを見たから信じたわけで、「見て信じたから、幸いだ」と感じるかもしれません。「見ないで信じる」とはどういうことでしょうか?

 ヨーロッパ中世の哲学者や神学者は何とか神の存在を証明しようとしました。そして信仰を理性的に裏付けることができると考えていました。近代になるとその前提は変わっていきます。17世紀のフランスに生きた哲学者ブーレーズ・パスカルは、神の存在を人間の理性で証明することはできず、信仰を理性的に裏付けることはできないと考えました。その上で「信仰は賭けだ」と言いました。パスカルの賭けの内容は今日くわしくお話ししませんが、パスカルは神がいるほうに賭けた方が得をする、だから神がいるほうに賭けたほうがいいに決まっている、と言いました。まあこのパスカルの賭けそのものにはいろいろ問題もあります。しかし、多かれ少なかれ、近代・現代の人間はこのパスカルの立場を出発点としていると思います。それは、神を見ることはできないし、人間の言葉で証明することもできない、ということです。だとしたら、信じることはわたしたちにとっても、ある意味で「賭け」だと言わざるをえないかもしれません。

 わたしたちは「復活を信じます」と言います。復活を信じるというのは、2000年前、死んだイエスが立ち上がって墓から歩いて出てきた、と信じることではありません。そうではなく、あのイエスの歩みが十字架の死で終わってしまったのではなく、イエスは死をとおって、もっと大きないのち、神のいのちの中に入っていかれ、そこで永遠に生きる方となった、と信じることです。そういう意味で復活というのは本来、目に見えたり、人間の言葉で証明したりすることのできないことです。人間の経験のレベル、人間の理解や言葉での説明のレベルを超えた出来事だからです。イエスの弟子たちは、復活のイエスに出会ったと証言しますが、彼らの体験はほんとうに例外的なことでした。イエスは自分が死に打ち勝ち、永遠のいのちを生きるものとなったということを、ご自分の弟子たちに知らせるために、特別な期間、特別な仕方で弟子たちだけに姿を現したのです。ですから、その後の時代の人たちにとっては、「見ないで信じる」のがあたりまえなのです。

 見ないで信じるのはやはり「賭け」だと言わざるをえないかもしれません。なぜわたしたちは「信じる」ほうに賭けるのでしょうか。
  それは聖書を読んで、福音書をとおして伝えられたイエスの生き方を知っているからです。イエスは神を「アッバ、お父さん」と呼びました。イエスは生涯をかけて、その「アッバ」である神への信頼を生き、すべてをアッバに委ねて生きました。また、出会った人一人一人を例外なく、神の愛する子、ご自分の兄弟姉妹として大切にされました。あのイエスを見た時、わたしたちは、これが本物だ、これこそわたしたちの目指す生き方だと直感的に感じるのです(もちろん足元にも及びませんが・・)。わたしたちは皆、そういう心を持っています。それは聖霊がわたしたちの心に働きかけているからだという人もいます。わたしたちの心に直接働きかける神の働きかけ=聖霊の働きがあって、だから、わたしたちがイエスを見た時に、「これが本物だ」と感じることができる、確かにそうかもしれません。あるいは、イエスの生き方が、わたしたちがそれぞれ自分の人生の中で経験してきた一番素晴らしいもの、一番根っこにあるものを思い出させてくれるからかもしれません。それは小さいころから受けてきた親の愛かもしれません。あるいは別の人や出来事をとおして経験した、本物の愛かもしれません。
 もちろんそれは目で見ることも、証明することもできないことで、やはり賭けのような面があります。わたしたちキリスト信者は皆、イエスに賭けた者です。

 トマスもほんとうは賭けたのだと思います。トマスは他の弟子たちにイエスが姿を現したとき、彼らと一緒にいませんでした。だから信じられませんでした。信じられないのですから、「イエスは死んだままで、生きていない」というほうに賭けることもできたでしょう。でも彼は「イエスが生きておられるかもしれない」というほうに賭けたのです。だから八日目の弟子たちの集まりに参加しました。
 もしかしたら、わたしたちもそうかもしれません。イエスは復活したというほうに賭けているというよりも、「イエスは復活したかもしれない」というほうに賭けている、それが実感かもしれません。イエスはトマスをいつくしみ、導いてくださいます。イエスはトマスをも信じるものに変えてくださいました。イエスはわたしたちをも導き、いつか必ず本当に信じるものに変えてくださいます。

 イエスの復活を信じるほうに賭けるということ。それは、どんなことがあっても光は闇に打ち勝つ、と信じることです。希望は絶望に打ち勝つ。信頼は疑いに打ち勝つ。愛は無関心や憎しみや暴力に打ち勝つ。そして最終的に、いのちは死に打ち勝つ。そう信じ、そのほうに賭けるということです。それは確かに賭けですが、本当は賭け以上のものです。信仰とは、わたしたちの生き方の選択の問題なのです。
 今日の福音はイエスの復活の日の出来事と、それから八日目、一週間後の出来事です。今日もわたしたちは八日目ごとのイエスの弟子の集いに集まりました。ここで復活の信仰を確かめ合いながら、愛を信じ、いのちを信じて歩んでいきましょう。


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復活の主日・復活徹夜祭



なぜかお墓の桜は美しい。
南相馬市小高区飯崎の墓地にある枝垂れ桜は、特にみごとです。

「願はくは花の下にて春死なむその如月のもちづきのころ」(西行)
という心境で、日本人はお墓に桜を植えてきたのでしょうか?

でも聖土曜日に見たこの桜が、わたしには
死に打ち勝ったキリストのいのちを表しているように見えました。


●復活徹夜祭
 聖書箇所:出エジプト記14・15〜15・1a他/ローマ6・3−11/マタイ28・1-10
                     2017.4.15原町教会
 ホミリア
 福音はマタイ福音書で、イエスが復活した朝の出来事が読まれました。
 復活されたイエスに最初に出会ったのは、女性の弟子たちでした。すべての福音書はイエスの復活の知らせを最初に受け取ったのが、墓に行った女性たちだったと伝えていますが、マタイ福音書とヨハネ福音書ははっきりと女性の弟子が最初にイエスご自身に出会ったと伝えています。
 男の弟子たちは最後までイエスについていくと言いながら、イエスが逮捕されると皆、逃げてしまいました。女性の弟子たちは違います。彼女たちはイエスの十字架に最後まで従い、イエスの死を見届け、三日目の朝、イエスの遺体の世話をするために墓に行きました。ローマ帝国に対する反逆者として十字架刑になったイエスの墓に行くということは、もしかしたら自分たちもとんでもない目にあうかもしれません。彼女たちは身の危険を犯してまでもイエスの墓に行こうとしました。

 イエスの時代、女性は弱い立場に置かれていました。当時の価値観では、律法をきちんと守った生活をすることが人間として最も価値あることでした。その律法は男性だけに学ぶ義務があり、男性だけに守る義務もありました。女性はその男性に従属する立場で、律法を守る主体とは考えられず、一人前の人間と認められていなかったのです。その中でイエスは女性も男性も神の前でまったく等しい尊厳をもった存在であることを教えました。それだけではありません。ある女性たちは病気によって、あるいは不幸な境遇によって、「汚れた女性」という烙印を押され、蔑まれていました。イエスの弟子となった女性たちはそのような境遇の中でイエスに出会い、イエスによって人間としての誇りや生きる意味を取り戻させてもらった人だったのではないでしょうか。そして、だからこそ彼女たちは、最後までイエスに付いていったのでしょう。

 そしてその女性の弟子たちにとって、イエスの死がどれほど辛く悲しいものであったかも想像できます。彼女たちは完全に打ちのめされていたはずです。そして彼女たちはせめてイエスの遺体に近づこうとしたのです。そこで安息日が終わり、夜が明けるとすぐにイエスの墓に行くのです。そこで彼女たちはイエスが復活したという知らせを受け取りました。

 今日のマタイの箇所では、実際にイエスに出会ったと伝えられています。ごくごく短い記述ですが。
 ここでイエスは「おはよう」と言います。原文のギリシア語では「カイレテchairete」と言い、まあ普通のあいさつに使う言葉ですから、「おはよう」でもいいのかもしれませんが、元の意味は「喜べ」という言葉です。復活のイエスがそこにいて、「喜べ」とおっしゃってくださったとき、彼女たちは本当に喜びに満たされていったことでしょう。
 この女性たちは何を喜んだのでしょうか。もちろんそれは「イエスが生きておられる」ということです!あのイエスが生きている。自分たちを限りないいつくしみを持ってあわれみ、救ってくださったあのイエスは生きている。

 彼女たちの大きな喜びをわたしたちも感じることができるでしょうか。わたしたちにとって、イエスが生きているという喜びはどういうことでしょうか。それは「愛は死に打ち勝った」という喜びだと言ってもいいのではないでしょうか。イエスの愛は暴力に、憎しみや妬みに、罪と死の支配に、闇の力に打ち勝った!
 それが2000年前にイエスの墓を訪ねた女性の弟子たちの喜びであり、わたしたちの喜びでもあります。わたしたちは今日、イエスに出会った女性たちと一緒に、主イエスの復活を心から喜び祝いましょう。




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聖金曜日 主の受難



浜通りの桜シリーズ。第二弾。
富岡町の、有名な「夜の森」の桜です。
大半は帰還困難区域で、立ち入ることのできるのはわずかな区間でした。
でも桜並木はみごとです。

●聖金曜日 主の受難
 聖書箇所:イザヤ52・13~53・12/ヘブライ4・14-16、5・7-9/ヨハネ18・1~19・42
                      2017.4.14カトリック原町教会
 ホミリア
 世界がどんどん暴力的になっていると感じるのはわたしだけでしょうか。
 シリアや北朝鮮をめぐる状況は非常に厳しいものがありますし、イスラム国を名乗るようなテロもあとを絶ちません。今週の日曜日、エジプトの2つの町でコプト正教会(非カルケドン派の正教会)を狙ったテロが起き、47人が犠牲になりました。聖週間に合わせて実行されたテロの報を聞いて、わたしたちは悲しみに襲われます。ISだけではありません。アメリカ、ロシア、中国、そして日本なども、自国の利益を守るために軍事力に頼ろうとする傾向が強まっています。
 もっと身近なところでは、凶悪な犯罪、特に弱い子どもや女性、高齢者を狙った犯罪も日々報道されています。さらにいじめや虐待、DVやパワハラなど、本当にいやになるほどの暴力がわたしたちの周りにあります。

 もちろん昔からそうだったとも言われるかもしれません。昔から人間は暴力の連鎖から抜け出せずにいるとも言えるのは確かです。
 わたしたちはとにかくそういう暴力が暴力を生む、暴力の連鎖がいやというほど感じられる現実の中を生きています。
 歴史を振り返って見て、暴力が問題を何も解決しないことをわたしたちは知っています。暴力は憎しみを生み出し、憎しみはまた新たな暴力を生み出します。暴力は暴力の連鎖しか生み出しません。そしてそう知りながらも、この世界は暴力の連鎖から抜け出せずにいるのです。

 そんな中で今日、イエスの十字架を見つめます。
 イエスこそ、まさに暴力の被害者でした。マルコやマタイは、受難のイエスが無力でただ苦しむ人になっていった姿を伝えています。ルカはその中で最後までイエスが示した積極的な生き方を伝えてくれますが、ヨハネの伝える受難のイエスは、さらにもっと十字架の死に向かって自ら積極的に歩んでいくような雰囲気があります。
 イエスが逮捕された時に、ペトロは持っていた剣で大祭司の手下に打ってかかった。しかし、イエスは「剣をさやに納めなさい」と言って、それをやめさせた。そしてその後のピラトの取り調べの場面ではこう言いました。「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」この世は力関係で動いています。強いものが勝利を得る、それがこの世の原理です。しかし、イエスはそういう原理を認めません。この世の原理と違う神の原理によってイエスは生きているのです。そのことをはっきりと主張しています。この世の力がすべてではない。この確信をイエスは持ち続け、語り続けました。イエスは受難の場面で、武力で抵抗しませんでした。でもそれは単なる無抵抗ではありません。今風に言えば、「非暴力の抵抗」と言ったらいいでしょうか。

 ヨハネ福音書の受難物語でもう一つ特徴的なのは、母マリアと使徒ヨハネとのエピソードでしょう。息を引き取る前、イエスは自分の弟子を母にゆだね、母を弟子にゆだねました。13章のはじめに、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」という言葉がありました。「この上なく」と訳された言葉は「最後まで」という意味にも取れます。この最後のぎりぎりのところでマリアを弟子に与えたのです。それは弟子に対するものすごい信頼だと言えるのではないでしょうか。また、「わたしの母があなたの母になる」ということは、「わたしたちは本当に兄弟なのだ」ということでもあります。イエスの弟子に対する極限までの愛とはそういう深い心の交流を意味していたのです。
 もう一つ、特徴的なのは「渇く」という十字架の上での叫びです。これは詩編の言葉と言ってもいいかもしれません。苦しみの中から神に祈った旧約の人々は「わたしは渇き果てています」と神に訴えました。イエスはすべての苦しむ人、暴力を振るわれている人、全てを剥ぎ取られている人。その人々とつながって「渇く」のです。

 この愛と連帯の姿がヨハネ福音書の受難のイエスの特徴です。だから最後の言葉は「成し遂げられた」なのです。イエスの十字架において、暴力は最高潮に達しました。この世の原理、力の原理、ご暴力の支配がすべてを覆っているように表面的には見えます。しかし、本当はそうではない。
 イエスが非暴力の抵抗を貫き、極限までの弟子たちへの愛と、苦しむすべての人への連帯を示された中に、そこにこそ、暴力と罪と死の支配を打ち破る道が開けたのです。だからヨハネ福音書のイエスは「成し遂げられた」と言って息を引き取られたのです。
 罪と死と暴力の支配に打ち勝ったイエスの十字架を今日、見つめ、あがめ、たたえましょう。


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