毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第3主日のミサ



事故から7年がたとうとしている福島第一原子力発電所。
廃炉作業に40年はかかると言われていますが、本当は廃炉までの目処が立っていないのが実情です。
神でないものの支配のシンボルのように思えてなりません。
(写真は双葉町の帰還困難区域を通る国道6号線から、遠くに見える福島第一原発)

●年間第3主日
 聖書箇所:ヨナ3・1-5, 10/一コリント7・29-31/マルコ1・14-20
            カトリック原町教会にて
 ホミリア
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
 マルコ福音書が伝えるイエスの福音告知の最初の言葉です。これは第一声というだけでなく、イエスが告げたメッセージ全体の要約だと言ってもいいでしょう。マルコ福音書は他の福音書に比べるとイエスの言葉を少ししか伝えていませんが、「イエスが教えた、告げ知らせた」という時、いつもこのメッセージを語っていたと考えてよいと思います。その意味で大切にしたい言葉です。でも、現代人には少し分かりにくいかもしれません。
 「神の国」の「国」という言葉は、元のギリシア語では「basileia」と言います。この言葉は「basileus=王」という言葉から来ていて、「王であること、王としての支配、王が支配する国」というような意味になります。英語の「king=王」と「kingdom=王国」というのとちょっと似ています。
 正確に訳すならば、「神の国」というより「神の王国」ということになりますが、これもピンと来ませんね。今のわたしたちは「神が王である国」と言ってもあまりありがたいと思わないからです。むしろへんな宗教国家を連想して、いやなイメージになってしまうかもしれません。でも、2000年前のイエスの生きていた社会、ユダヤやガリラヤの人々にとって、「神の王国が近づいている、もうすぐ神が王になってくださる」というのは、本当にありがたい救いのメッセージだったのです。

 紀元前1000年ごろ(サウル、ダビデの時代)からイスラエルは王国になりました。多くの王は人々の上に権力をふるい、人々を苦しめました。その後は長く外国の支配が続きました。バビロニア、ペルシア、エジプトのプトレマイオス王朝やシリアのセレウコス王朝。そしてイエスの生まれたころにはパレスチナはローマ帝国の植民地になっていました。外国の王や皇帝の支配によって、人々は苦しんできました。
 だから「神が王となる」というのは人間の支配者からの解放のメッセージだったのです。イエスは、神がこの人々の苦しみを遠くから見ていて、知らん顔をしているのではなく、今まさに近づいてきて、王となってくださる、というメッセージを語ったのです。ただそれはイエスが軍隊を組織して、「政治的、軍事的」に外国の王の支配を打ち破る、というようなことではありませんでした。
 聖書の中の王の理想は、弱い者を大切にし、助け、かばうことによって、群れ全体を一つにし、養い生かす羊飼いのイメージでした。そのいつくしみ深い羊飼いのように、どんな人をも決して見捨てず、わたしたち一人一人を大切にしてくださる神に信頼して生きよう、そしてその神のこころを受け取って、人間同士お互いを大切にして生きよう、そういう呼びかけでした。

 「悔い改めて、福音を信じなさい」
 「悔い改めmatanoia」は旧約聖書の言葉で言えば「主に立ち返ること」、心の方向を神に向け直すことです。いつくしみ深い神に心を向け、その神が王となってくださる、というメッセージに自分自分をゆだねていきなさい、自分をかけていきなさい(それが信じるということです)、イエスはそう呼びかけたのです。
 「神が王となってくださる」それは「良い知らせgood news」と言われます。でもこのニュースは、テレビや新聞に出て来るようなニュースではありません。神の呼びかけであって、人間の答えを待っているメッセージなのです。「神は王となってくださる」あなたはそれを受け入れますか?あなたはそれにどう応えますか?そこが問われます。
 たとえて言えば、「わたしと結婚しよう」というようなメッセージです。その人は本気で相手に向かって言うわけですね。でも本当に結婚が成立するかどうかは相手がそれにどう答えるかにかかっています。相手が「はい、結婚しましょう」と答えなければ、結婚は成り立ちません。
 「神が王となってくださる。」「はい、喜んでわたしの王として受け入れます。」そこに神の国が始まるのです。

 今日の福音ではガリラヤ湖のほとりにいた4人の漁師がイエスの最初の弟子になります。彼らはもちろん、「神の国は近づいた」というメッセージを聞いたのです。そして、この呼びかけに応えた最初の人たちでした。イエスが神の国の到来を告げ、人がそれを受け止めて、それに応える中で、神の国は始まっていきます。イエスの福音告知とそれに人々がどう応えていったかをマルコ福音書はここから始めて、ずっと伝えてくれています。
 わたしたちはどうでしょうか。今のわたしたちも実は、神以外のいろいろなものに縛られているのではないでしょうか。そのわたしたちにとって、神が王となってくださる、というのは、やはり解放のメッセージなのではないでしょうか。
 イエスは今日、わたしたちに呼びかけています。「神の国は近づいた。神が王となってくださる」その呼びかけを受け取って、「はい、神様、あなたがわたしの王となってください」本気でそう答えることができますように。


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年間第二主日のミサ



毎晩、夕食の後、教会の聖堂で祈りのひとときを持っています。
日曜日の夜、ふつうの教会なら誰もいなくなるような時間ですが、
ここでは聖体のイエスの前に集まる兄弟姉妹がいます。
感謝です。

●年間第2主日
 聖書箇所:サムエル上3・3b-10, 19/一コリント6・13c-15a, 17-20/ヨハネ1・35-42
     カトリック原町教会にて
 ホミリア
 年間第二主日には毎年、ヨハネ福音書の中で、イエスの活動が始まるころの出来事が読まれます。今年は、最初の弟子たちがイエスに出会う場面です。ここにヨハネ福音書の中でのイエスの第一声があります。
 「何を求めているのか」
 イエスは「これをしなさい」「これはしてはいけない」という前に、その人の願いを聞いてくださる。とてもすばらしいこと、ありがたいことだと思います。わたしたちにもイエスはそう問いかけています。
 「何を求めているのか」
 わたしたちはなんと答えるでしょうか?お金が欲しい、健康がほしい、家族みんなの幸せがほしい。皆が仲良くあってほしい。世界が平和であってほしい。まあいろいろありますね。

 今日の福音で、イエスの質問に対する二人の答えは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」というものでした。「何を求めているのか」と質問されて、質問で答えているわけで、対話になっていないという感じもします。でもこの答えには意味があります。彼らの本当の願いを表しているとも受け取れます。それは「あなたのいるところに、わたしたちも行ってみたい。あなたとともに時を過ごし、あなたの話をもっと聞きたい。あなたのことをもっとよく知りたい」ということでしょう。それは本当に彼らの願いだったのではないでしょうか。そしてイエスは「来なさい、そうすれば分かる」と答えられるのです。彼らの願いに答えてくださったと言えるでしょう。そして、イエスのもとに泊まり、時を過ごした二人のうちの一人アンデレは、兄弟シモンに向かって、「わたしたちはメシアに出会った」と証言していくようになるのです。
 わたしたちにとっても、この弟子たちの願いはとても大切なことのように思います。わたしたちは、やはりイエスをもっとよく知りたい。そう思って、聖書を読みますし、こうしてミサに来ています。これはわたしたちの深いところにある願いでもあると言ってもいいでしょう。その願いをイエスは受け取ってくださいます。

 もちろんそれ以外にも、人にはそれぞれ、願いがあります。マルコ福音書の10章には、イエスがよく似た質問をしている箇所があります。
 「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と言った弟子のヤコブとヨハネに対して、イエスは「何をしてほしいのか」と問いかけました。ヤコブとヨハネはすぐに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と答えました。彼らの願いは、自分たちに高い地位を与えてくださいという願いでした。初めからそう願うつもりだったのですからすぐにそう答えるのです。しかし、イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とおっしゃいます。そして、それが本当に願うべきことではないのだということを話されます。イエスは本当に求めるべきことがなんであるかを明らかにされます。それは「仕えられるためではなく、仕えるために来られたイエスにならい、皆に仕える者になること」。ヤコブは使徒たちの中の最初の殉教者になりました。ヨハネは伝承によれば長生きして、多くの弟子にイエスの愛を伝えました。マルコ10章で願ったこととはぜんぜん違う道かもしれません。表面的には彼らの願いは聞き入れられませんでした。でも長い年月かけて、「仕える者となる」ということが彼らの本当の願いになっていったのでしょう。それは彼らがイエスをもっと深く知るようになっていくからです。だとすると今日の二人の弟子の体験と似ていると言えるかもしれません。

 マルコ10章では、この話の後、イエスはエリコの町で、バルティマイという目の見えない人と出会いました。彼に対してもイエスは「何をしてほしいのか」と問いかけます。バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。これも自分のための願いです。でもヤコブやヨハネが高い地位を願ったのとは何かが根本的に違います。それは「わたしを救ってください」という彼の心の底からの叫びのような願いでした。イエスはそれを受け取ります。バルティマイは目が見えるようになって、まずイエスを見たはずです。そしてイエスを知り、イエスに従って歩むようになっていきます。そう考えると、今日のヨハネ福音書の弟子たちの体験とよく似ているかもしれません。何かの願いがかなうという以上に、イエスは「よく見なさい。わたしはここに、あなたとともにいる。あなたもわたしのもとにずっと居続けなさい」そう呼びかけているとも言えるでしょう。
 
 今日も、イエスはわたしたちに「何を求めているのか、何をしてほしいのか」と問いかけています。そこからイエスとの関わりが始まります。
 「何を求めているのか」
 この問いかけに、今日、精一杯答えていきたいと思います。


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主の公現のミサ



●主の公現(祭)
 聖書箇所:イザヤ60・1-6/エフェソ3・2, 3b, 5-6/マタイ2・1-12
       カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日のミサの後、クリスマスの飾りを片付けることになっていますが、せっかく飾ったものなので、これについてちょっとお話ししたいと思います。
 クリスマスツリーはヨーロッパの北の地方で生まれました。寒く、雪と氷に閉ざされたような地方の冬。もみの木やヒイラギのような常緑樹は、いのちのシンボルでした。それがイエス・キリストのいのちの誕生を祝うことと結びついたのです。色鮮やかな実がなったり、明かりが灯されるのも、そこに豊かないのちがあることのシンボルです。
 一方でイタリアなど南ヨーロッパでは、なんといっても飼い葉桶の人形です。これは聖書に伝えられたイエスの誕生の場面を再現するものです。13世紀にイタリアのグレッチオという町で、アシジの聖フランシスコによって始められたと伝えられています。当時は中世の真っ只中、大きな教会で荘厳なクリスマスのミサが行われていましたが、フランシスコはあえて町外れの洞窟のようなところに、本物の牛やろばを連れて来て、本物の人間の赤ちゃんを飼い葉桶に寝かせて、そこでクリスマスを祝いました。フランシスコがそうしたのは、クリスマスの「貧しさ」のメッセージを伝えるためだったそうです。このインスピレーションが受け継がれて、さまざまな人形などによって、イエスの誕生の場面を再現するようになりました。
 最近、あちこちでお話ししていますが、これは「馬小屋」ではありません。馬は軍隊や権力者のための動物でした。イエスが生まれた場所にいたはずの家畜は、荷物を運んだり、農作業に使うため、普通の人が飼っていた動物、つまり牛やロバなのです。最近では日本でも「馬小屋」と言わず、イタリア語で「飼い葉桶」を意味する「プレセピオ」という言葉も使われるようになってきました。まあ「飼い葉桶」の飾りと言っておきましょう。「飼い葉桶に寝ている」ということが何よりもこの幼子の特徴だからです。去年と今年、原町教会の聖堂の脇では、クリスマスツリーと飼い葉桶のイエスを組み合わせてみました。

 さて、この飼い葉桶の飾りですが、ちょっと無理なところがあります。お生まれになったイエスが飼い葉桶に寝かされ、そこに羊飼いたちが訪ねて来た、というのはルカ福音書が伝える出来事です。一方で、東のほうでメシア誕生のしるしである星を見た三人の博士(占星術の学者)がイエスを拝みに来た、というのは今日の福音のマタイが伝える出来事です。羊飼いたちはベツレヘムの近くで野宿をしていたので、イエスの誕生の晩に、そこに駆けつけたはずですが、三人の博士は遠い国で星を見て、それから出かけたので、彼らが幼子イエスのいたベツレヘムにたどり着いたのは何ヶ月もたってからのことだったでしょう。ちなみにきょうの福音の箇所の後、ヘロデ王が自分の王位を脅かすかもしれない幼子を抹殺しようとして、ベツレヘムの周辺の2歳以下の子どもを大量虐殺したという話があります。幼子イエスはヨセフとマリアに連れられてエジプトに逃れて無事でしたが、この話からも博士たちの来訪にはかなりの時間がかかっていたことが分かります。
 そういうわけで、羊飼いたちと博士を一緒にするのはどうかと思いますが、伝統的にどこでもそうしているようです。幼子イエスの周りに集まってくる大勢の人々というイメージを大切にしているのでしょう。先週、聖家族の祝日に思い起こした、シメオンやアンナという人々の姿もここに加えていいのかもしれません。この二人は、長く救い主を待ち望んでいたイスラエルの民を代表する人たちでした。実にさまざまな人が幼子イエスの周りに集まって来ます。その雰囲気を感じ取りたいと思います。
 幼子イエスがそこにいる喜び、幼いいのちを見守り、このいのちが健やかに成長していくことを願う祈り。この子の未来にかける夢と希望。この幼子こそがすべての人の救いへの飢え渇きを満たす方だ。それを表すのが、この飼い葉桶の飾りなのです。
 
 さて、祭壇の前には飼い葉桶と幼子イエスだけが置かれています。マリアとヨセフ、牛やロバ、羊飼いや博士たちはどこにいるのでしょう。もちろん、それはわたしたち自身です。わたしたちも二千年前のマリア、ヨセフ、牛、ロバ、羊飼いや博士たちのように、幼子イエスを囲み、幼子イエスを見つめて集まっています(残念ながら犬は外で、車の中で待っていますが・・・)。
 ここにはいろいろな人がいます。フィリピンから来た人も、中国から来た人も。日本国内でもいろいろな地域から来た人。健康な人、病気がちな人。若い人、高齢の人。お金のある人、お金のない人。いろいろな人が集まっています。幼子イエスはどんな人でも迎え入れてくれます。神様はこのわたしたち一人一人、どんな人にも例外なく、いつくしみを注いでくださいます。

 わたしたちは皆、闇に輝く光であるイエスを見つめ、そのイエスの光に照らされています。世界の動きを見ていて、闇の力がものすごく大きく感じられることがあるかもしれません。自分の周りも真っ暗闇に感じるかもしれません。でももうすでにあの幼子イエスの光は確かな光として暗闇の中に輝いているのです。それは本当に小さな光です。しかし暗闇が光に打ち勝つことはできません(ヨハネ1・5)。
 幼子イエスの光がわたしたちの周りの人々にも広がっていきますように。全世界のすべての人、特に戦争や災害、貧困や差別の中にある人々に届きますように、今日、この主の公現の祭日にあたり、ご一緒に祈りたいと思います。


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元旦のミサ(神の母聖マリアの祭日)



あけましておめでとうございます。
写真は南相馬市北泉海岸の初日の出です。
ミサの説教で触れている2枚の写真は、幼い子どもたちが出席していたので、実際にはお見せしませんでした。
ここにも貼りません。どちらも有名な写真なので、画像検索すれば、すぐに出てくるはずです。

●神の母聖マリア(世界平和の日)
 聖書箇所:民数記6・22-27/ガラテヤ4・4-7/ルカ2・16-21
      カトリック原町教会にて
 ホミリア
 お正月ですが、教会の暦では降誕八日目、神の母聖マリアの祭日を祝います。
 そしてもう一つ、カトリック教会で大切なのは、1月1日が、「世界平和の日」だということ。1月1日を世界平和の日と定めたのは、パウロ6世教皇でした。1967年のことで、今年で51回目になります。50年前はベトナム戦争が激しさを増していたときでした。そのときにパウロ6世教皇は、平和のために祈るよう、全世界のカトリック信者、全世界の人々に呼びかけました。

 ベトナム戦争のことを思い出している中で、どうしても一枚の写真が思い浮かんで脳裏から消えませんでした。たぶん誰もが一度は目にしたことのある写真だと思います。その写真が撮られたのは、1972年のことでした。ベトナム南部のチャンバンという村に、南ベトナム政府軍がナパーム弾を投下しました。火傷を負いながら裸で逃げてくる少女の写真です。ベトナム人の報道カメラマンが撮影し、翌年のピューリッツァー賞を得ました。世界中にベトナム戦争の悲惨さ、そして南ベトナム政府軍やアメリカ軍の軍事行動の非道さを印象づけました。「子どもがこんな目にあっていいはずがない」誰もがそう感じ、ベトナム反戦への意識を世界中に広めた写真です。ちなみにベトナム戦争は1975年のサイゴン陥落で終わりました。
 この少女はキム・フックという名前で、当時9歳でした。ひどい火傷を負いましたが、一命をとりとめ、17回に及ぶ手術を受け、無事に成人しました。そして、世界各地の戦争や紛争で苦しむ子どもたちを救済する活動を続けているそうです。

 正月からこんな話で申し訳ありません。
 でも今も世界各地で子どもたちが戦争の犠牲になっています。ほんとうにひどいことです。
 カトリック教会にはかつて「正戦論」というものがありました。『いのちへのまなざし 増補新版』の最後のところに出てきますが、そこではこう説明されています。「正戦論では、戦争は目的においても手段においても正当でなければならず、平和の回復が目的でなければなりません。手段に関しては、必要以上の武力を使うこと、虐殺、火を放つことなどは認められません」 ぎりぎりのところで戦争もやむを得ない場合がある、という考えです。しかし、現代の教会はあらゆる戦争に反対するようになりました。ヨハネ23世教皇の『地上の平和』という回勅の中にこういう言葉があります。「原子力の時代において、戦争が侵害された権利回復の手段になるとはまったく考えられません」広島・長崎のあの原爆を経験した人類にとって、もはや「正しい戦争」などないということです。軍隊と軍隊が戦う、国と国とが戦うのが戦争の古典的なイメージです。でも現代の戦争は、そうではなく、ピカソの描いたゲルニカの空爆以降、大人も子どもも含め数知れない市民が犠牲になるものであることが、明らかになりました。言ってしまえば、教会の教えが変わったのではなく、戦争の現実が変わってしまったのです。ヨハネ・パウロ2世教皇はじめ、フランシスコ教皇にいたるまで、現代の教皇たちはもはや「正しい戦争」を語ることはありません。あらゆる戦争に反対しています。
 あのベトナム戦争の少女の写真もまさにこの現代の戦争の悲惨さを訴えていました。

 クリスマスから一週間目にこんな話で申し訳ありません。
 降誕八日目。わたしたちは幼子イエスを見つめています。本当に貧しく、小さく、無力な幼子としてイエスは世に来られました。この小さないのちを守りたい。だれにもこのいのちを侵させてはならない。しかし、この幼子イエスのいのちもヘロデ王によって狙われました。そのためにヨセフは今で言えば難民となって、マリアと幼子イエスを連れてエジプトに逃げることになりました。「この小さないのちをなんとか守りたい」、それがヨセフとマリアの必死の思いでした。それがわたしたちの平和を願う祈りの原点にある思いでもあります。
 その思いで、今日、平和のために祈りましょう。この新しい年、一人でも多くの子どもたちが戦争やテロの恐怖から解放され、飢餓や貧困から解放され、平和のうちに生き、成長することができますように。

 教皇は毎年、世界平和の日に合わせて、メッセージを出します。今年のフランシスコ教皇のメッセージの題名は「移住者と難民、それは平和を探し求める人々」というものです。教皇は移住者と難民について繰り返し語ってきましたが、改めてこのメッセージでもこの問題を取り上げています。
 最後にもう一枚の写真を見せたいと思います。これも有名な写真です。
 3歳のアラン君。シリアのクルド人難民の子ども。家族でシリアからトルコに移り、トルコから脱出しようとした2015年、粗末な船が転覆し、溺れて亡くなり、トルコの海岸に打ち上げられました。世界中の多くの人の心を揺さぶった写真です。
 「こんな小さな子どもに、こんなことがあってはならない」
 その思いで、全世界の子どもたちのために平和を祈りましょう。
 聖マリア、聖ヨセフとともにこの祈りを神にささげましょう。


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聖家族の祝日のミサ



降誕祭の後の日曜日は、イエス、マリア、ヨセフの家族を祝う「聖家族の祝日」。
写真は原町教会の聖堂のヨセフ像です。

●聖家族の祝日
 聖書箇所:創世記15・1-6, 21・1-3/ヘブライ11・8, 11-12, 17-19/ルカ2・22-40
     カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日の福音には二人の高齢者が登場します。シメオンとアンナです。
 シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを聖霊から受けていましたが、幼子イエスを見てその子がメシアだと分かり、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言いました。ですからかなりの高齢だったのでしょう。アンナのほうは84歳の女預言者と言われていて、この幼子イエスが救い主であると人々に伝えました。
 この二人はずっと救い主を待ち望んでいた旧約の人々の代表のようです。二人が高齢なのは、待ち望んでいた期間がとても長かったことを表しているのでしょうか。それだけでなく、高齢であるがゆえに、特別、知恵に富んでいて、この幼子こそ待ち望んでいた救い主であると悟ることができたという面もあるのでしょう。

 幼子イエスを囲む人々の集い、ここには大きな家族が示されているとも感じます。
 家族はふだん一緒に暮らしている人だけが家族なのではありません。ちょうど今、年末を迎え、昨日あたりは、ふだん会えない家族と再会するために、日本中で人々の大移動が起こっていました。正月であっても会えない家族もいますが、でも、特別に遠くにいる家族のことを思うときでもあるでしょう。そういう大きな家族を思うのが、日本では正月ですね。さらに言えば、血のつながりはなくとも、今日の福音には幼子イエスと両親を取り囲む人々の姿があります。これも大きな家族と言えるかもしれません。「イスラエルの家」という大きな家族が感じられます。この家族としての連帯感は、狭い民族主義になると危険ですが、血縁の家族よりもっと広い人と人とのつながりというものは、とても大切です。高齢者も若い人も、幼い子どももいて、そういうつながりの中で生きている。そこに未来への希望と信頼が生まれてくるのです。

 先日、今年の推定出生数が発表されました。それは94万人で、二年連続100万人を下回り、統計を取り始めた1899年以来、最低となったとのことです。一方、死亡者の数は134万人。単純計算すると40万人の人口減ということになります。日本はほんとうに人口減の社会になっています。少子化の中での社会保障の問題とか、少子化を食い止めるための子育て支援とか、いろいろなことが言われていますが、未来に対する希望と信頼がなければ、この状態はますます深刻になっていくと思います。
 若い世代の人たちは明るい未来を思い描けているでしょうか? たぶん多くの若者はそうではないように感じます。でも、これは本当は若い世代の問題ではありません。むしろ、もっと上の世代が、目先のことばかりを追い求めてきた結果なのではないかと思います。どうすればもっと経費が節減できるか、どうすればもっと効率的か、そういうこと、目先のことばかりを求めてきてわたしたちの社会は未来を見失ってしまったのではないでしょうか。

 フランシスコ教皇の言う、「時間は空間にまさる」という言葉を最近よく思い出します。この言葉は、何でも今すぐ、すべてを解決しようとするのではなく、長い時間をかけて地道によりよいものを作っていくことが大切だ、という意味だとわたしは理解しています。時間をかけて何かをしていく、ということが今の世界では忘れられがちです。目の前の利益ばかりを求めてしまうのです。本当に一人一人の人間を尊重し、いのちを大切にする社会を作るには50年、100年ぐらいの時間を見なければならないはずです。そういうものが後回しにされて、原発再稼働、リニア新幹線、オリンピック、基地建設、防衛力増強などに走る、本当に悲しいことです。結果的に、人は未来に希望を持てなくなってしまうのです。

 わたしには甥や姪がいて、その子どもたちの成長はほんとうに目を見張るものがあります。そして、幼い子どもたちはやはり未来に続く時間というものを強く感じさせてくれます。今日は大晦日。一年が終わって、まったく新しい一年が始まる。そう思ってもいいのですが、むしろ、時間はずっと続いていく。その中で、子どもたちは成長していく。その未来を信じ、未来を作っていく、それが大人の責任だと思いますし、それが家族の役割だと言ってもいいのではないかと思います。
 もちろん、子どものいない家族もあります。わたしもそうですが、今や日本でもっとも多い世帯構成は一人世帯になっています。でもやはり、人は一人で生きているのではない、今、支え合って生きるつながりによって生かされている、それだけでなく、過去から未来へと続くいのちのつながりによって生きている、その感覚を大切にしたいと思います。今日の福音のシメオンやアンナの姿はそういうつながりに生きる大きな家族の姿を示しているように感じます。

 聖家族の祝日にあたり、すべての家族が、すべての人が祝福されますように祈りましょう。


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