毎日がクリスマス

カトリック司教 幸田和生のブログです。説教メモなど

年間第23主日のミサ





先週はまた九州でした。
上の写真は26聖人殉教の地、西坂の丘。その裏の山の上に黙想の家があります。
下の写真は聖母の騎士修道院の隣の本河内教会にある聖マキシミリアノ・コルベ神父の肖像画です。

●年間第23主日
 聖書箇所:エゼキエル33・7-9/ローマ13・8-10/マタイ18・15-20
            2017.9.10カトリック原町教会
 ホミリア
 一週間、長崎に行ってきました。コンベンツァル聖フランシスコ修道会という男子の修道会の黙想会の講師を務めさせていただきました。長崎の街と港を見下ろす立山という山の上にある黙想の家で一週間過ごさせていただきました。地図を見たら、日本26聖人の殉教地西坂の丘に近いので、散歩で行ってみることにしました。黙想の家を出て、すぐに急な階段。お墓の中の階段をどんどん下って行って西坂の殉教地に着きました。まあ帰りはとても歩いては登れない、と思ってタクシーにしました。それくらいの急な山です。あと、長崎でコンベンツァル会といえば、マキシミリアノ・マリア・コルベ神父です。コルベ神父は1930年に日本に来て、長崎に修道院を建て、さまざまな活動をしましたが、1936年ポーランドに帰り、その後、ナチスに捕らえられ、最終的にアウシュビッツに送られました。そこで死刑を言い渡された若い父親の身代わりになることを申し出て、殺されました。1982年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。そのコルベ神父が建てた聖母の騎士という修道院も案内してもらいました。コルベ神父は修道院のある山にルルドの洞窟を作りました。これもかなり階段を上ったところにあります。そこには地下から汲み上げた水が流れ出ています。原爆で有名な永井隆博士がこの水でいやされたという話もありました。

 長崎に行くと日本のカトリックの長い歴史を感じさせられます。
 1549年にフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝え、教会は発展していきました。1587年、豊臣秀吉の命令で長崎で26人のキリシタン宣教師・修道者・信徒が信仰を理由に処刑されました。それから江戸時代にかけて、おびただしい数の殉教者が出ました。ちなみに今日は「日本205福者殉教者」の記念日です。そのうちの55人は1622年9月10日に、長崎・西坂で処刑されました。「元和の大殉教」といわれる日本の教会史上もっとも大きな殉教事件でした。そして日本の教会は200年以上、一人の司祭もいない中で信仰を守り、受け継ぎ、1865年、大浦天主堂でのプチジャン神父との劇的な出会いをとおして、再び姿を表しました。その後、浦上四番崩れがあり、キリシタン禁制の高札が撤去されたのは1873年のことでした。コルベ神父が日本に来たのは1930年のこと。コルベ神父が去った後も、ゼノ修道士たちによって日本でのコンベンツァル会の活動は続けられ、原爆の後の長崎、そして戦後の日本でさまざまな働きをすることになりました。

 黙想会に参加していたのは、司祭と修道士15人で、半分ぐらいが修道士(ブラザー)でした。こちらのほうではシスターはよくみかけますけれど、ブラザーはあまり見ませんね。その祈りが迫力ありました。「アヴェマリア、恵みに満ちた方・・・」これを15人の男性の声で唱えるので迫力あります。お経のような唱え方に聞こえて最初はびっくりしましたが、一週間一緒に祈っているとわたしも慣れて来ました。棒読みのようにも聞こえるのですが、ずっと祈り続けるためにこういうほうがいいのかとも思いました。
 とにかく祈る、これが長崎の信仰。その祈りに少しですが触れさせていただきました。

 今日の福音で、イエスは言います。
 「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」
 本当なのだろうか、と誰でも思いますよね。「祈っても祈っても、ひどいことばかりじゃないか」と思いたくなることがたくさんあるからです。
 それでも長崎のカトリック信者は祈ることをやめません。たくさんの殉教がありました。長い迫害と潜伏の時代がありました。原爆の大きな犠牲がありました。それでも祈り続けるのが長崎の信仰なのだと感じています。
 それは、祈らなければ、神とのつながりがなくなる、ということなのではないかとわたしは思っています。神とのつながりを見失えば、人間の力がすべてという世界になってしまいます。いつのまにか、人間はそれが(人間の力がすべて、ということが)当たり前だと思うようになってしまいました。でも本当はその世界で人間は生きることができません。人間にはどうしようもない限界があるからです。人間の力を超えた大きな力に支えられ、守られなければ、わたしたちは生きることができない。だから人間は祈るのです。これはキリスト信者だけのことではないでしょう。

 祈りはたとえどんな時でも、神とつながっているために、またイエスやマリアとつながっているために必要なことなのです。いいことがあれば、それはイエスさま、マリアさまと一緒に賛美と感謝の祈りになるでしょう。辛いことがあれば、それはイエスやマリアと一緒にゲッセマネの祈り、十字架の祈りになるでしょう。とにかく祈るのです。
 どんな時も祈り続けなさい。それが今日のイエスの呼びかけだと思います。祈らない理由を見つけようと思ったら、いくらでも見つかるかもしれません。祈るよりも愛の行いの方が大切、祈るよりもこれをしなければ、とか、理屈でいえば確かにそのとおりです。でも祈りはやはり理屈ではない。「それでも祈りなさい。一人で祈ることも大切だけれど、二人、三人で一緒にいるときも祈りなさい。そのとき、わたしはあなたと一緒にいる。」それが今日のイエスの約束です。
 このイエスの約束を深く心に刻んで、祈り続けたいと思います。


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年間第22主日のミサ





九州に行ったついでに、福岡教区の2つの教会を案内していただきました。
一つは由緒ある「今村教会」(国の重要文化材)。今年は、今村の潜伏キリシタン発見から150年だそうです。
もう一つはお隣の「本郷教会」。福岡の豪雨災害のボランティア宿泊所になっていました。福岡の災害もたいへんで、まだまだボランティアが必要とされているそうです。

●年間第22主日・被造物を大切にする世界祈願日
 聖書箇所:エレミヤ20・7-9/ローマ12・1-2/マタイ16・21-27
        2017.9.3カトリック原町教会
 ホミリア
 この二週間、関西、関東、九州と駆け回っていました。3つのカトリック学校から『いのちへのまなざし増補新版』についての話を頼まれて行ってきました。きちんと準備もできなかったのですが、話しているうちにいろいろ考えることがありました。このメッセージはもともと21世紀を迎えるにあたって、いのちの大切さを多くの人、キリスト信者でない人々とも分かち合いたいという願いから2001年に発表されたものでした。今回は十数年たって、時代の変化に合わせた大幅な改訂が加えられることになりました。わたしは、その改訂作業にかかわっていたので話を頼まれたのです。「いのちの大切さ」といえば、誰もが賛成するでしょうが、このメッセージの説明を準備している中で、キリスト教信仰から見て、特に大切にしたい2つのことを考えさせられました。

 一つはいのちの平等性ということ。わたしたちはすべてのいのちは神から来たものだと信じています。だからどんないのちも同じようにとうとい。胎児のいのちは誕生した後の赤ちゃんのいのちよりも軽いということはない。障がいのある人のいのちは障がいのない人のいのちより価値がないということはない。どこの国の人とか、どの民族とかで人のいのちの価値に違いはない。それはどうしても大切にしたいことです。たとえ犯罪者のいのちであっても、抹殺にしてしまえばいい、というものではない。この点は譲れないということを強く感じさせられました。どんな人も例外なく、一人一人の人間にかけがえのない尊厳がある。この点を問い続けていくことは、日本のキリスト者の使命だといってもいいと思います。

 もう一つ、いのちというのは孤立した肉体の中にあるいのちだけがいのちではなく、神とのつながりの中にある、ということです。わたしたちのいのちは神から来て、最終的に神に帰っていくいのちなのだとわたしたちは信じています。だからいのちについて考えるとき、誕生から肉体の死までの時間と空間の中に限定されたいのちだけを考えないのです。
 きょうの福音でイエスはそういういのちについて語っています。
 25節。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
 同じいのちという言葉を使いながら、一方では、この肉体的な生命のことを言います。それを守ろうとして、それだけを見ていたら、神とのつながりの中にあるもっと豊かないのちを見失うということでしょう。イエスの十字架は、肉体の中にあるいのちを捨て、もっと豊かなつながりの中に生きることでした。わたしたちにも同じ道を歩むよう、今日の福音は呼びかけています。なぜなら、あのイエスの十字架の道こそが、本当の意味で神とのつながり、そして、人とのつながりを生きる道だったからです。

 聖書のイメージでは一粒の麦のイメージがわかりやすいと思います。ヨハネ12章24節にあります。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
 麦が自分の殻に閉じこもって、必死に自分が自分であることを守ろうとしたら、そこにいのちはありません。そうではなく、地に落ちてある意味で死ぬ。土から水分や栄養を取り入れて、自分を壊して、そこでいのちはもっと豊かないのちになっていく。そんなイメージ。つながりの中にあるいのちのイメージ。これを大切にしたいのです。

 今日は「被造物を大切にする世界祈願日」という日にあたっています。フランシスコ教皇は2015年に『ラウダート・シ』という回勅を発表して、「すべての造られたものがともに暮らす家である地球を大切にしよう」と呼びかけました。そして、このことを考える日として9月1日に定めましたが、日本では関東大震災の日で防災の日でもあり、むしろ日曜日にしたほうが、教会で一緒に考え祈ることができるというので、日本だけ、9月の第一日曜日になりました。
 教皇が『ラウダート・シ』の中で特に強調しているのは「integral ecology」という考えです。「総合的なエコロジー」と日本語で訳していますが、環境の問題はいわゆる環境だけの問題ではない。貧しい人の問題、戦争と平和の問題、生まれる前の胎児のいのちの尊重という問題、すべてはつながっている、というのです。これがintegral ecologyです。「環境」と言ってしまうとわたしたちとわたしたちを取り囲む環境は別のものですが、わたしたちと私たち以外のすべてのいのちの住んでいるこの地球という感覚を持とうとしています。「共に住む家である地球を大切に」というのはそのこと。

 「すべてはつながっている」ということをフランシスコ教皇は強調しますが、いのちはすべてつながっているという感覚をわたしたちは大切にしたい。
 わたしのいのちはわたしのいのちだけで、ポツンと存在しているのではない。地球のさまざまな生物のいのちとつながっている、貧しい人のいのちともつながっている。他の宗教の人、他の国の人、他の民族の人、全部つながっている。病人や高齢者や子どもたちも。そのいのちのつながりを生きることがわたしたちの大きな課題です。
 そう考えているうちに、でもこれはキリスト教だけのことではないのかもしれないと思いました。いのちがつながっているという感覚。仏教でも神道でも、あるいはアメリカやオセアニアの先住民でもそういう感覚がありました。いつのまにか人類はそれを忘れて、自分のこと、自分のまわりのこと、目先の損得、そんなことばかりに目が向くようになってしまった。
 「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」このイエスの呼びかけを精一杯受け取りたいと思います。


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年間第21主日のミサ



8月26日(土)、カリタス南相馬の夏祭りが行われました。
この場所に移ってはじめての夏祭りです。
眞こころサロンやボランティアの皆さん、さゆり幼稚園や教会の全面協力のもと、各地のサロン活動で出会った方々やご近所の方々も来てくださり、楽しいひと時を過ごしました。
最後は生演奏の相馬盆歌で盆踊りでした!

●年間第21主日
 聖書箇所:イザヤ22・19-23/ローマ11・33-36/マタイ16・13-20
              2017.8.27カトリック原町教会
 ホミリア
 今日の福音はペトロがイエスへの信仰を言葉で表し、その信仰告白したペトロに対してイエスが特別な使命を与えられる場面です。今日の福音の中で、イエスはペトロに向かって、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われました。今日は特にこの言葉についてご一緒に味わいたい。
 マタイ福音書で「天の国」というのは、「神の国」の単なる言い換えです。マタイは「神」という言葉を軽々しく使わないというユダヤ人の習慣に基づいて、「神」を他の言葉で置き換えているのです。「国」のほうもちょっと説明が必要でしょうか。ギリシア語の「国=バシレイア」は「王=バシレウス」という言葉から来ています。神の国とはむしろ「神の王国」で、「神が王となる、神が王として治めてくださる」という状態を表す言葉です。

 この「天の国」のイメージ、どうでしょうか? 新約聖書では二つの言い方がよく出てきます。「神の国が来る・天の国は近づいた」というのと、「天の国に入る」。
 「天の国は近づいた」というのは、神がわたしたちのところに近づいて来て、わたしたちを救ってくださる、という感じ、この世界に神の救いが実現するという感じですね。この世界が「神の国が来ますように」というふうにわたしたちも祈り願います。これは今のことでもあり、同時に世の終わりのことでもあります。一方、「天の国に入る」というと、わたしたちが神のもとに近づき、神に受け入れられるというイメージでしょう。わたしたちが本当に神のみこころにかなうものとなり、神に受け入れられますように。これもわたしたちの祈りです。そしてそれは今のことでもあり、また最終的に、たぶん死を迎えるときのことでもあります。全部が同じことを言っているのだとも言えますが、微妙なニュアンスの違いもあります。
 マタイ福音書11章12節には不思議な言葉があります。
 「彼(洗礼者ヨハネ)が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は激しく襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」
 これは「天の国に入る」というほうのイメージなのでしょう。当時、神の救いから遠いと思われていた人々、徴税人や娼婦というような、職業的に罪びとのレッテルを貼られていた人々が、洗礼者ヨハネの言葉によって、心に変化が生まれ、神に希望を置き、神に近づくようになったということを表しているようです。

 さて、「天の国」「神に近づき、神に受け入れられる」そのための鍵があるというのです。そしてそれがペトロに委ねられるというのですね。
 この鍵ですが、日本語では分かりにくいですが、実は複数形です。鍵束のイメージです。ある人はこんな空想をしました。天の国に入る入り口はたくさんあって、あっちのドアから入る人、こっちの門から入る人がいる。ペトロはそのために、あっちこっちと走り回っている。まあ空想ですが、楽しい雰囲気です。
 たった一つの入り口しかなければ、そこからしか入れない。当時で言えば、律法にかなった生活をしている人でなければ、天の国に入れないということになります。そこからは職業的に罪びとというレッテルを貼られた人は排除されますし、律法を学び、律法にかなう生活をする余裕のないような貧しい人も排除されます。さらに、病人や障害者、異邦人も皆、排除されてしまうのです。でもそうじゃなく、いろんな入り口がある。この天の国のイメージは大切にしたい。

 鍵束をもって走り回っているペトロの姿を思い浮かべると、今のフランシスコ教皇の姿に重なっているように感じました。
 離婚したり再婚したりした人をもっと寛大に受け入れようとしています。不幸にして妊娠中絶をして苦しんでいる女性たちをもっと寛大に受け入れようとしています。同性愛の人や性的マイノリティーと言われる人を受け入れようとしています。
 少しずつかもしれませんが、「ここからも天の国に入れますよ、ここからでも大丈夫」と教皇はおっしゃっているように感じます。

 よく「教会は敷居が高い」と言われます。確かに今だにそういうところがあるかもしれませんが、イエスのこころはそうではない、とわたしたちは知っています。「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」これがイエスのこころです。昨日はカリタス南相馬の夏祭りで、おおぜいの人が来てくださいました。幼稚園から入って来てもいいし、カリタスから入って来てもいい。お祭りや縁日から入ってもいい、相馬盆唄から入ってもいい。本当に神様は、大きな手を広げて、みんなを天の国に招き入れようと、待っていてくださる。そのためのたくさんの入り口を閉ざす教会ではなく、ペトロにならって、たくさんの戸の鍵を開く教会になることができますように、今日、このミサの中でご一緒に祈りたいと思います。


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年間第20主日のミサ



6年間にわたり全村避難していた飯舘村の避難指示が3月31日にほぼ解除され、
8月12日には道の駅「までい館」がオープンしました。
道の駅といっても、当然のことながら、地元の産物はほとんど見当たりません。
唯一見つけたのが、このインゲンでした。お味はとても良かったです。

さて、いつもの説教メモ。よろしければどうぞ。

●年間第20主日
 聖書箇所:イザヤ56・1, 6-7/ローマ11・13-15, 29-32/マタイ15・21-28
             2017.8.20 カトリック原町教会にて
 ホミリア
 今日の第一朗読は、異邦人の救いについて語るイザヤ書56章の言葉です。民族宗教的な色合いの強い旧約聖書の中で、すべての国の民の救いへの希望が語られる大切な箇所です。そこには、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という有名な言葉が出てきます。
 パウロは異邦人の使徒と言われますが、今日の第二朗読では、同胞であるユダヤ人の救いについて語ります。ユダヤ人の中で生まれたキリスト教は、ユダヤ人以外に広がっていき、それとともにユダヤ人のほうがキリストを受け入れなくなっていきました。キリスト教は、自分たちこそ神の民であるというユダヤ人の民族的誇りを失わせると感じられたからでしょう。それを見て、パウロは心を痛めながら、語っています。そして最終的に、神は異邦人もユダヤ人も含めたすべての神の民(全イスラエル)が救われるというのがパウロの希望です。
 そして福音はイエスがカナンの女と出会い、彼女の娘の病気をいやしたという話です。
 ここでもすべての人を救う大きな神の救いのわざが語られています。3つの朗読の内容はつながっていますね。

 でもちょっと気になるところもあります。それは、イエスが最初、娘の病気を癒してくれるように願った異邦人の女性の願いを拒絶しているように感じられることです。
 「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」
 なんかすごい言葉です。しかし、福音書を見れば、それがどういう意味が分かります。
 当時のユダヤ社会の貧しい人、病人や障がい者、職業的に差別されていた徴税人など。牧者である神のそばにていて、神に守られているはずの羊が散り散りになり、弱り果てている。神がその人々を見失ったのではなく、周囲の人々(とくに宗教家たち)からこの人々は神から断ち切られていると見られ、自分でもそう感じざるをえなかった人々。これが「失われた羊」のイメージです。イエスが確信していたこと、人々に伝えたことは、神がすべての人のアッバ=父であるということでした。神はどんな人も見捨てることなく、迷子になった一匹の羊をも探し求めている方。そのことを自分の出会った貧しい人々に伝えることがイエスの使命でした。だから「イスラエルの失われた羊」が優先なのです。
 しかし、イエスは少数かもしれませんが、今日の箇所のように異邦人にも出会いました。その具体的な出会いの中で、イエスはこの異邦人、救いを求めて必死で自分に近づいてくる異邦人も、やはり神の「失われた羊」だということに気づかれたのだと言ったらよいかもしれません。

 新約聖書はギリシア語で書かれましたが、ethnosという言葉があります。「国民」と訳される言葉です。典型的なのはヨハネ11章。
 「50『一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。』51これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。52国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」
 ここで言う「国民」はユダヤ人のことですね。
 ところがこのethnosが複数形ethneになると「異邦人」という意味になります。「諸国民」というのが言葉の意味ですが、この諸国民の中には、自分たちユダヤ人は入っていないのです。面白いですね。単数だと自分たち、複数だと他の人たち。「わたしたち」と「あの人たち」という感じです。
 もう一つ、よく出てくる言葉があって、それは「すべて」という形容詞をつけた「panta ta ethne」という言葉。これは「すべての国の民(万民)」の意味で、ここにはユダヤ人も異邦人も含まれています。「わたしたち」とわたしたちを含む「すべての人」。

 イエスも使徒たちも皆ユダヤ人であり、初代教会の問題として、救いはユダヤ人だけでなく、異邦人にも及ぶのか、という問題がありました。なぜその壁を乗り越えることができたかといえば、「わたしたちとあの人たち」という対立ではなく、「わたしたちとすべての人」という見方ができたからです。もちろんそれはイエスがわたしたちすべての者の父である神を示してくださったから可能になった見方です。と同時に、わたしたち皆が、ある意味で、「失われた羊」であり、神の助けを、救いを必要としている。そう感じるならば、「わたしたち」と「あの人たち」の対立は超えられていくのです。

 ユダヤ人か異邦人かという対立は大昔の話です。
 でも国籍や職業や学歴や性別、力のあるなし、障がいのあるなし、貧富の差によって人をグループ分けする見方は今もあります。自分たちのグループか、別のグループか、そうやって人を区別する見方が今もあります。そこに対立、争い、差別、排除が生まれます。しかし、「何か特定のグループか、それともその違いを超えたすべての人か」という見方で見るならば、わたしたち人類はもっと一つになれるのではないでしょうか。
 日本では長い間、キリスト教は外国の宗教だと言われてきました。いや今もそう言われてしまうことがあるかもしれません。外国から入ってきた宗教だから仕方ないのか、それを乗り越えるには、もっと日本人にあうようなキリスト教の表現をする必要があるのか。しかし、わたしたちは胸を張って言いたい。キリスト教は外国の宗教ではない。わたしたちの信仰の根本には日本人も外国人もない、すべての人間の父である神を信じるのです。
 今日もすべての人の父である神にこのミサをとおして賛美と感謝をささげましょう。


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聖母の被昇天 祭日のミサ



8月15日はカトリック教会では聖マリアの被昇天の祭日でした。
この日もいろいろなところから来られた方々をお迎えしてのミサ。
祭服(ストラ)の絵柄が好評でした。

●聖母の被昇天
 黙示録11・19a, 12・1-6, 10ab/一コリント15・20-27a/ルカ1・39-56
        2017.8.15カトリック原町教会にて
 ホミリア
 「聖母の被昇天」というのは、イエスの母マリアが生涯の終わりに、体も魂も一緒に天の栄光に上げられた、というカトリック教会の教えです。教皇によってはっきり教義として宣言されたのは1950年のことです。マリアの生涯の終わりについては聖書に書いてありません。そのことについて1950年になってから教義として宣言した。プロテスタントの方から見ると、とても理解できないことかもしれません。
 ただしこれは20世紀に発明された教えではありません。カトリック教会の典礼では8世紀ごろから祝われてきました。それ以前に東方教会では「聖マリアの永眠dormitio」という祝日が8月15日に祝われていました。それが西方にも受け継がれ、マリアの祝福された「終わり=眠り」というところから発展して、次第に聖マリアが完全にキリストの復活のいのちにあずかったということを祝うようになり、西方では、「被昇天assumptio」という言葉で呼ばれるようになりました。

 カトリック教会では、1962年に第二バチカン公会議が開かれました。第二バチカン公会議は『教会憲章』(1964年)という文書の中で、マリアについて語ることになりました。最後の8章ですが、その結びとなる第5節のタイトルは「旅する民にとって確かな希望と慰めのしるしであるマリア」というものです。第二バチカン公会議の教会についての捉え方がここによく表れています。教会は「旅する神の民」。教会は真理を独占的に持っている存在とか、神の救いに満たされた状態というのではない。罪も弱さも、汚れもありながら、なんとかキリストに従い、最終的な神の救いを希望しながら、信仰と愛をもって旅をしている民。その民にとって、マリアは「確かな希望と慰め」だというのです。そこで特に思い起こされるマリアの姿が被昇天のマリアの姿です。
 このマリアの姿は、決してマリアだけが受けた栄光の姿ではありません。キリストを信じるわたしたちが皆、最終的に受けることになる救いの姿、キリストの復活のいのちにあずかるというそのことを、被昇天のマリアは前もって示している。これが大切なことです。

 第二朗読でパウロは、キリストの復活にすべての人があずかるという希望を語ります。「アダムによってすべての人が死ぬことになってように、キリストによってすべての人が生かされることになる。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」。教会はこのキリストに属している人たちの第一人者としてマリアの被昇天を祝うのです。

 第一朗読は、一人の女性の姿を表わします。「身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には12の星の冠をかぶっていた」。12は旧約の神の民の部族の数であり、イエスの使徒たちの数でもあります。12という数が象徴しているのは教会なのです。この女性は教会を表すシンボルと考えられます。同時にこの女性については「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」とありますから、この女性をイエス・キリストの母であるマリアを考えることもできます。そしてこの女性は迫害の中で荒れ野に逃げ込み、そこで神の助けをいただいています。ここでのマリアの姿には、苦しみや試練の中にある教会とのつながりを見ることができます。

 さらに福音のイメージも大切にしたい。
 福音は聖マリアのエリサベト訪問とMagnificatと言われるマリアの歌。このマリアの歌の前半は救い主の母となる使命を与えられたマリアの個人的な神への賛美ですが、後半はすべての人を救う神への賛美になっていきます。前半と後半をつなぐキーワードは「身分の低さ」です。神は「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」。だから神はすべての「身分の低い者を高く上げ」てくださる。マリアはそう歌うのです。自分一人の栄光を見ているのではなく、すべての人、弱く貧しいすべての人との連帯の中で神の救いを受け取るマリアの姿があります。

 そういうわけで今日、わたしたちは被昇天のマリアの姿を仰ぎ見ながら、信頼と希望をもって祈りたいのです。
 戦争で亡くなられたすべての人が神のいのちのうちに安らかに憩うことができますように。また今も戦争におびえ、戦争によって傷つけられている子どもたちが、そこから解放されますように。人類が悲惨な戦争を繰り返すことなく、すべての分裂や争いを乗り越え、愛と相互理解に到達することができますように。たとえそれが、どんなに遠い道に見えたとしても!
 また、亡くなったわたしたちの先祖や家族が、神の永遠のいのちに入ることができますように。先祖代々キリスト信者の方もいらっしゃると思いますが、わたしたちの多くは、キリストを知らずに世を去った先祖や家族を持っています。その人々、誠実な生涯・家族や周りの人々に対する愛・病気の苦しみなどによってキリストの十字架に結ばれた人々が、キリストの復活のいのちにも結ばれると信じて祈りたいと思います。
 そしてわたしたち教会の歩みのためにも祈りましょう。日本において、わたしたちキリスト者は弱く小さな存在ですが、おとめ聖マリアに結ばれ、被昇天の聖マリアの姿に励まされながら、信仰と愛をもって歩み続けることができますように。


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